長寿社会の問題点 <定命のもの(2)>
命には限りがあります。それが生命の定義のひとつであり、一方で悩みのタネであるのですが、しかし、現代において、現実として、我々の寿命はどんどん伸びています。
ご存知のように生活環境や栄養状態の向上、また医療技術の進歩により寿命はさらに伸びています。特に医療技術進展の寄与は大きく、平均寿命は100歳を超えるという説を唱える人もいます。我々人類は、インモータル(不死)に近づいているという話です。
で、実際のところはどうなのか、さっと調べてみると、2015年度の日本人の平均寿命調査で、男性が80.79歳、女性が87.05歳ということ。
日本人の平均寿命はどれくらい?|公益財団法人 生命保険文化センター
過去からの推移はこんな感じ。
寿命は時代を経るごとに順調に伸びています。もちろん寿命が伸びることは喜ばしく歓迎すべきことなのですが、問題も出てきますね。悪い面も軽く考えてみましょう。
悪い面としてよく言われるのが、人生をつつがなく終えるためのお金の不足。死ぬまで裕福に暮らすには定年までに1億円貯めなければいけないなどと生命保険会社が言っています。本当にこれだけ必要かはわかりませんが、年金の制度が破綻したらいくらお金を持っていても足りないでしょうね。
そういう心理が働くのか、日本では高齢者が財産を溜め込み、一方で若者が貯蓄できていないという問題もあります。世代間で財産が還流していないという問題ですね。統計上、日本の貯蓄率は高いと言われながらも不均衡があるという例です。寿命が伸びれば、世代間の財産的不均衡は拡大すると考えられます。不謹慎かも知れませんが、世代間の財産の不均衡は相続という制度を通って一般的には解消されるからです。
それから、長寿社会は高齢社会でもあります。つまり、平均寿命が伸びることの悪い面は、高齢社会の悪いところがそのまま適用できます。医療費の増大、痴呆、介護の諸問題、働き手と養われる者の不均衡、消費の減少、活力の低下とかそういうところです。
最近だと高齢者による交通事故もそのひとつでしょうか。年を取ると、目や耳の感覚やとっさの判断力が衰えます。動物であればこれは避けがたいことです。早く自動運転が広まらないかな、そうすれば高齢者が危険な運転などしなくてもいいのになーなどと考えています。
本当はこれらの諸問題に、自分なりの回答でもつけられればよかったのですが、残念ながら良い考えが浮かびませんでした。気の利いた答えも思いつかず。
でもいろいろと考えたおかげで、死ぬことのない「インモータル」たちの心情に少しでも寄り添うことができたかも。お気楽そうな神々も、実は結構、彼らなりの悩みを抱えているのかも知れません。
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命に期限があるから輝ける <定命のもの(1)>
そういえば、インモータルズという映画がありました。
ギリシャ神話の神々が出てきて敵と戦う映画でした。まあ壮大そうな割には日本の予算の少ない特撮物を連想させる出来でしたが……さて。
インモータル(英語)は、イン・モータルと切ります。インは否定の接頭辞ですね。インモー・タルときってはいけません。色々な意味でですね。ちょっとおシモっぽくなります。とにかく、イン・モータル。モータル(mortal)とは、「死すべき運命の、定命の」という意味なので、それを否定するインモータルとは、「不死のもの」。つまり、神様の代名詞です。じゃあ死すべき運命のモータルは、といえば、人間のことを指すんですね。
人間ははかない定命の存在。誰も彼も皆いつか死ぬのに、そのことを忘れているのかあえて見ないのか、とにかく意識の外に置いて生活しています。暖衣飽食、それだけでなく娯楽が尽きぬ現世にあって、わざわざ死を意識することは逆に難しいのかも知れません。そういう中でも死を、つまりは生が有限であることを嗅ぎ取って、人生を積極的に選び取っていく人たちも少数ながらいます。
不思議なものです。絶対に避けられないものだし、そう遠いものでもないというのに、「自分の死」だけは遠く意識から追いやっている。でも、終わりがあるから「今」を大切にしようと思うものです。限りがあるから、人生を輝かせたいという発想が出てくるし、実際に人生を輝かせるために厳しい努力を積み、自分の能力を開発し困難に打ち勝ち、華々しく生きる人もいます。終わりがないと思えば、いつまでもダラダラするのが人間というものです。自分がはかない定命のものだということに、逆に感謝をして生きるべきなのでしょうね。人間が神々よりも優れている点は、期限が定まった命を持っていることにあるのです。(続く)
爆買いの季節、ですね
来週から大体2週間、爆買いの季節ですね。
今年は春節(中国における正月)が1月28日ですから、前後1週間、合わせて2週間があちらの連休になるわけです。ですので観光客がどっと増えることになります。中国の観光会社も「かきいれどき」とばかりにこの時期に日本を含めた格安の外国旅行ツアーを組むので、来る人も外国慣れしていない人が多いですし、しかも団体客です。近年はマナーが向上してきているとはいえ、どうしても態度は悪くなりがちです。
でも立場を入れ替えて考えてみましょう。例えば、日本から、団体ツアーで、欧州へ海外旅行に行く。生まれて初めてか二度目、しかも普段から海外情報に親しんでいない年配の方が連れ立っていくとしたら、まあ多少マナーが悪くなってしまうことが理解できるのではないでしょうか。(許容はできないかも知れませんが)
まあ何はともあれ、日本の小売業の人たちにはとってみれば、こちらも絶好の「かきいれどき」。
今年は去年と比べて日本円が元に対してちょっと高い(5%くらいかな)ですけれど、消費動向が変わっていなければ、客足はそんなに変わらないんじゃないかな。
日本経済をどっかんどっかん回してもらえると嬉しいですね。
あの人とうまくいかない? それって認知特性が影響しているかもですね。
日常って、人と会話したり、相手に何かをしてあげたり、言われたことをやったりの連続ですよね。
話すこと、してあげること、言われたことをやること。要はアウトプットのことですが、このアウトプットが相手の期待と違っていることがあります。人によっては、割とよくあることかも知れません。アウトプットが相手の期待と異なっているせいで、奥さんや家族に怒られたり、仕事で文句を言われたり。あるいはアウトプットの速度や効率も影響しているかもしれませんね。
我々は、インプット(情報・依頼)があって、我々の脳みそでインプットを解釈・理解し、言葉や行動でアウトプットします。っていうか人間であればそれ以上はできませんね。
でもこのインプットも、人によって違うんです。
というのも、人によって情報の認知の仕方が違うからです。認知が違えば、インプットは自ずから違ってくる。であれば、アウトプットも違ってきて当然ですね。
認知の仕方(認知特性)には大きく3分類あり、<視覚優位型、聴覚優位型、言語優位型>に分けられるそうです。さらに細かく分けて6種類の認知特性があります。自分と相手の認知特性を知ることで、自分の理解の仕方、あるいは相手の理解の仕方がわかります。
認知特性を知ることで、相手と同じものを見ても、「自分はこう感じたけれど、相手はああいう風に感じているんだろうな」と推測ができます。
そもそも、「自分と相手では感じ方が違う」と知っているだけで、自分と相手、相互の理解はぐっと深まるのではないでしょうか。
それを書いたのが下の本です。
著者の本田真美さんは小児科医で、読者の認知特性を図るテストも付いていますので、一度でもやってみると役に立つと思いますね〜。
この認知特性を測るテストにはもうひとつの良さがあって、自分の認知特性を知ることで、自分にあった能力開発ができるんです。
当然、自分の認知特性にあった仕事をしていれば。能力が開花する可能性が上がるわけです。苦手な認知特性のところで頑張っていても、うまくいきませんからね。
例えが通じるかわかりませんけど、いわゆる「HUNTER×HUNTER」でいう念能力みたいなものですよ。強化系とか具現化系とか能力者の特性があって、それにあった能力を自分で開発しないと勝てないって話ですよ。特性にあった能力にしないと、「要は選択ミスってことだろ?」とかキルア君に言われちゃうわけですよ。
ちなみにたふたふは「言語優位者(言語抽象タイプ)」でした。スコアが26以上あったので強い認知特性ですね。文章とか扱うのに適しているというから、素直に嬉しいですね。その代わり、「聴覚優位」が壊滅的でした。ということは、「聴覚優位者」の人とはとんでもなく合わない可能性があるということですね。がーん。気をつけないと…。
結構当たっているテストだと思うので、 周囲の人と一緒にテストをやって、お互いの認知特性を確認し会うのも面白いかもしれません。
引いてから押す、引くから押せる。
たとえば、貴方が誰かに自分の主張を通したいとき。
フローとストックと
フローとストックという概念があります。会計なんかで使われる概念ですが。
ものすごく噛み砕いていくと、フローは「走り続けること」だし、 ストックは「振り返って立ち止まること」なんですよね。走るメロスと待つセリヌンティウスみたいなもんです。
走り続けるのは大事だけど、ときどき立ち止まって振り返ってみないと、どこへ向かっているかわからなくなる。自分の立ち位置もわからなくなる。逆に、立ち止まり続けていれば楽でいいかもしれないけれど、どこにも行けない。
ちきりんさんが著作の中で、「ストックからフロー型へ!」と呼びかけていたのはこういうことも意味しているんだなぁ。
ここの文脈だと、働いて収入を得ることがフロー。貯蓄で暮らすことがストック。昔は定年を迎えて立ち止まったところに、大体の人の寿命があったからよかった。ストックが無くなる頃にはみなさんぽっくり逝けたからです。でも、今の時代、定年まで一生懸命働いても、生きていけるストックを稼ぐことは難しい。その点、常に収入を生み出せるフローの力があれば、定年したあとも収入を生むことができる。
フローが大事というのは、長寿時代の処方箋なんですね。生きるためのお金稼ぎも、立ち止まってはいられないんです。いつまでも走り続けなくてはならないんです。いやはや……。
今日はなんだかとりとめがなく、文章をふわっとフローさせてみました。
ストックからフローへ。働くことが好きな人たちへ。
つらいとき、「あえて」乗り越えない。という考え方。
羽生結弦選手が、「情熱大陸」に出演したときのこと(2016年4月)。
インタビューで、こんなやりとりがありました。
――つらいときはどうやって乗り越える?
「あー、もう乗り越えようとしないです。つらいものはつらい、認めちゃう。つらいからもうやりたくないんだったら、やめればいいし。それでいいと思ってます、僕は」
これ、どういう意味なんだろう?
普通、大体の一流スポーツ選手は、つらい経験を持っていて、それを努力とか周りのサポートとかそういうもので乗り越えて、一流になるものだ。でも超一流のスケーターである羽生結弦さんは、つらいときは乗り越えようとしない。そんな風に言っている。理解できない ーー最初はそう思いました。
スポーツ選手にとってつらいときっていうのは、伸び悩んだり、努力しても結果が出ない、そういう時期のことのことだと思うんですよ。そういうつらいとき、普通の人だったら馬鹿騒ぎしたりお酒を飲んだりしてつらさ、ストレスを発散しちゃう。スポーツ選手だったら、より激しいトレーニングに打ち込んだりするのかも知れません。
けれど、羽生結弦さんはそれをしない。つらさをつらさのままで受け止めるという。個人的な見解ですけど、つらいということは、ときに自分が未熟だという証になります。未熟であることから目を背けても、問題は解決されない。しかも大概問題の解決には時間がかかる。だから、ゆっくりと力が伸びて、問題が解決できるまでの間、自分のつらさと向き合うしかない。
つらさというものは、ときに自分の成長を促す糧になります。
そのときわたしが思い出したのは、ケリー・マクゴナル女史の言葉でした。
スタンフォード大のケリー・マクゴナル女史によれば、「ストレスは悪いばかりではなく、良い面もある」。例えば、ストレスを感じることで、普段よりも注意力や集中力が高まったり、社会性が高まったりするそうです。
「過去のつらい経験を受け入れようと思った人たちは、幸福感が増してストレス抵抗が強化される。自分のつらかった経験を振り返って、あえてよい面を見つめることは、ストレスとの付き合い方を変えるのに役立つ。過去の逆境を受け入れることは、今の苦しい経験を通して成長するための、勇気を奮い立たせるきっかけになる」
きっと羽生結弦さんはこのことを経験的に知っているのではと思います。だからつらさを安易にまぎらわしたりごまかしたりせずに、まっすぐにつらいことに向き合う。でもそうは言っても、つらいことをつらいまま抱えて生きて行くのは、やっぱり大変なことです。そして羽生結弦さんは真面目そうなので、つらいことをじっと直視しながら生きていそうなんですよね。
想像するに、自分の成長の糧はひとつもとりこぼさないぞ、というような貪欲さの反射なのでしょうか。でも、つらいことに向き合い続ける大変さが減るわけではないので、やはり精神力がものすごいんでしょうね。
でもインタビューでは、”つらいときはやめればいい”と自ら逃げ道も残しています。そこのあたりが柔軟で、脆弱さよりもしなやかな強靭さを感じますね。マジイケメン。
You Tubeに動画がありました。
情熱大陸 フィギュアスケーター・羽生結弦に密着!160410 - YouTube
くだんのケリー・マクゴナル女史の本。
2018.3.3追記:羽生結弦選手は、2018年2月の平昌(ピョンチャン)オリンピックの男子フィギュアシングルで、怪我のハンデに耐えながら、みごと金メダルを獲得しました。おめでとうございます。