読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

「自分は不幸?」 とりあえず確定させたら?

上機嫌を技にする本を読んでいていいこと書いてあった。

 
 乱暴にまとめてしまうと、「不幸は確定させてしまえ」ということだった。
 
 自分はひょっとしたら不幸なんじゃないだろうか、とふとしたときに感じるものだと思う。世の中の幸不幸は主観的なものだけど、同時に相対的なものでもある。
 
下には下がいるものだが、上には上がいるものだ。隣の芝生を垣間見た瞬間、あれ、ひょっとして自分は不幸なんじゃないだろうかと不安になる。そんなものだ。
 
でも、「自分は不幸かしら? いやそんなはずはない」ともやもやした状態をかかえて生きると気分は良くない。そんな状態で何かをしようとしても、物事はうまく運ばない。 ならばいっそ、自分は不幸である、と確定させてしまえばいい。 そうして、どうしたらこの不幸から抜け出せるか、少なくとも改善ができるかと頭を悩ませた方がよほど生産性があがるはずだ。
 
 わたしも自分が不幸かと自問自答を繰り返して悩むより、さっさと現実への対策を打っていきたいと思いまーす。 
 
 

 本当に地味にいいことが書いてある良書。

 
 
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カジノ法案が通ったと聞いてワクワクしてる

カジノ法案が成立した。

 

 

 

依存症とかの話は前に書いたから脇に置いておくとして、カジノができたときの産業波及効果をあれこれ妄想してみたい。

 

 

 

わざわざ特区を作るのだから、カジノ法案が目指すはミニラスベガス。

 

 

ラスベガスには行ったことはないが、映画やエッセイではお馴染みの場所だ。ちなみに作家の浅田次郎さんはラスベガスが大好きらしい。

 

 

 

まさかカジノという箱だけぽんとおいて終わりじゃないだろう。ターゲット層は外国人を含めたハイクラス。エリアにはドレスコードも当然あるだろう。セキュリティも高度じゃなきゃいけないし、一方でVIPだらけの世界だからプライバシーも最高レベル。賭け事だけじゃなく、ハイクラスのショービジネス、グルメ、酒、宿泊施設も当然いるよね。最終的にはセレブ向けの最高級サービスを備えた不夜城だ。

 

 

 

今まで日本は国民平等、1億総中流の建前でやってきたから、本当の金持ちむけのコンテンツはなかった。いやあるところにはあるのかも知れないが、あんまり大っぴらになっていない。これは世界的に見れば珍しい。

 

 

 

富貴の差というのは、大きい方が世界標準だ。

 

 

日本では総中流でみんなが普通という建前のため、カジノのような「お金持ちオンリー」のコンテンツは珍しい。

 

 

カジノ構想がきっかけになって、新しい何かが出てくればいい。それがわたしの期待だ。

 

 

 

 

ショービジネスなんかは総合芸術だけど、海外、日本の金持ち相手なら限定上演ということで単価をあげられるだろうから、創作の自由度も高まり、少数層向けの前衛的な作品もできるだろう。それに、その場はパトロンが新しい芸術の才能を見出す場になるかも知れない。

 

 

カジノのように着飾る場が出来れは、服飾、宝飾業界にとっては新しく良質な市場が出来ることを意味する。新しい市場から新しいモードが発信されることもあるかも知れない。セキュリティやプライバシーも、IT技術を活かしてスマートに管理できるはずだ。高級感が必要だから先進技術が採用されるだろうし、またその実験結果から一般市場への展開もあるはず。羽田からカジノまでの直行リムジンやヘリのような特殊インフラも出来そうだ。

 

 

 

総じて言えば、お金をかけられる「ハイクラス市場の出現」は、予算がかかって簡単に一般市場に出せなかった商品やサービスの「実験場の出現」と同じだと思ってる。実験場が出来れば、いままでできなかった新しい何かが生まれてくるんじゃなかろうか。

 

 

 

カジノから始まる、新しい市場。新しい商品。一般市場への波及。

 

 

 

想像するとワクワクしますね!

 

 

 

 

 

 

 

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失敗や不幸にくよくよして不機嫌でいて、何かいいことがある?

上機嫌をスキル化するべきだと主張する本を読んでいる。 

 
失敗や不幸にくよくよして不機嫌でいて、何かいいことがあるだろうか? 
 
不幸そうにしていると誰かが助けてくらそうなものだが、残念ながら現実では逆だ。むしろ明るいひと、幸せそうなひとのところに救いの手は差し伸べられる。 
 
どうしてかは自分を逆の立場に置き換えてみればわかる。いつも不機嫌で暗いひとよりも、いつも元気で明るいひとを助けたくなるだろう。 いつも上機嫌で、明るいひとのところには自然とひとが集まる。これは時代や国柄を問わず共通していることだと思う。
 
 でも、いつも上機嫌でなんていられない、生きていればいくらでも嫌なことがある。今日だって家族と喧嘩した。仕事でそりの合わないひとと話した。普通のひとの生活はそんなものだと思う。 
 
でも、自分が受けた不機嫌や不幸をそのまま周囲に撒き散らしたら、どうなるだろう。俯瞰的にみたら、不幸、あるいは不機嫌な気のようなものが拡散し、あなたの周りのひとが少しずつ不幸になる。周囲の不幸はまたあなたにフィードバックされ、あなたはさらに不幸に、不機嫌になる。 
 
あなたはあなたで、不機嫌にくよくよして自分の内面にある不幸な思考を上乗せして加速させ、また自分のなかの不幸を強固にしていく。不幸ばかり感じることになる。 
 
この忌まわしい流れを、どこかで断ち切らなければならない。あなたはそう考えるだろう。 
 
 そこで、上機嫌のスキル化である。
 
 不機嫌や不幸をあなたのところであえてふっきり、忘れ、あるいはおしつぶして、あえて、上機嫌に振る舞ってみる。最初はぎこちないだろう。だがいずれうまくなる。上機嫌はスキルなのだから。さらに極めれば、そのスキルは体に溶け込み、生来の上機嫌と見分けがつかないくらいになるのかも知れない。
 
 思考は現実化するともいう。ならば、幸せそうな行動が幸せな人生を呼び込んでもまったく不思議じゃない。 
 
ひとつ言えるのは、くよくよするくらいなら、何かべつのことをやっていたほうがなんぼか生産的だ。俳優にでもなったつもりで、上機嫌に振る舞ってみてもいいんじゃないだろうか?
 
 
あのユリウス=カエサルも常に上機嫌だったらしいですよ。

 
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良書を見逃すことは、人生を逃すことと同じ

17世紀、フランシス・ベーコンという人が、本についてこんなことを言ったらしい。

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「味わいつつ食べるべき本もあれば、手っ取り早く呑み込んでしまえば十分というほんもある。そして、少数ながら、くちゃくちゃよく噛んで、ちゃんと消化すべき本もある」

 

わたしはそこそこ本読みなので、毎月3〜6冊は本を消化する。(休暇期間は消化冊数が跳ね上がる)それでもまだ読みたい本が次から次へと現れるので、読まないまま積みあがる本、いわゆる「積ん読」がでんと山になってしまう。(最近は電子書籍が出てきて、積ん読はうずたかい山ではなくて、長いリストになった。本の置き場に困らなくなったのが本当に嬉しい。けれどこれは本稿の主題じゃないのでどこかで書く)

 

積ん読に手をつけた時は、買ってから長い間待たせた子たちなのだから、大切に読んでやりたい……と思うけれど、しかしどうにも内容がない本というのはある。

 

本だから文字は書いてあるのだが、文字が並んでいるだけで、自分にとって有益な情報じゃない、あるいはつまらない、いうものがある。

 

こういう時は、スパッとその本を読むのを諦めてしまって、次へ進むべきだ。本には読むべき時期があったり、つまらない本もそれなりの読み方というのが存在するのだけれど、でも、現代日本は毎月何十冊もの新刊が出る出版大国だ。読んだ時点でつまらなければ、前世からのご縁がなかったと思って涙を飲んで諦める。さよならだけが人生だ。次の出会いに期待しよう。

 

逆に、人生の指針になるような本に出会うことがある。人生には良き師が必要で、幸不幸は人との出会いが決めるというが、良き師も良き隣人の役割も本が務めるような人生がある。そんな時は、その本との出会いを逃さず、ラインを引き、書き込みしながら何度も読み返す。概してそういう本は、10年経った後でも新しい発見を与えてくれるものだ。そうして人生の短くない部分をその本と過ごすことになる。最初の喩えに戻れば「くちゃくちゃとよく噛んで消化すべき本」だということだ。

 

厳しいことを言うようだが、本の価値は全て等価ではない。

緩急軽重があり、それを判断し、読み方を決めなければならない。

「あなたの時間」という資源は間違いなく限られているのだから。

 

 

さて前置きが長くなったが、指摘したいのは、今述べてきたことは、決して本だけのことじゃないということ。人生を過ごすなかでの出会い、出来事、経験。そのいずれにも軽重がある。

 

それなりに年齢を重ねると、日常に起こること大体はいつも同じで、スルーしがちに生きている。膨大な出会いと出来事があるから仕方のないことだと思う。けれど、人生に深く影響する出会いや出来事は、そう多くない。

 

その数少ない、人生に深く影響する出会いや出来事を大切にできるかどうかで、人生の豊かさは変わってしまうのではないだろうか。

 

日常の忙しさにかまけて見落としてしまった本も出会いも出来事も、振り返って取り戻す時間を作ってみませんか。

 

 

 

 


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質と量、どちらがより大事でしょうか?

どちらかといえば、質より量が大事だ。

 

会社からの帰り道を歩いていて、ふとそんなことを思った。

 

アウトプットは品質かける量で求められる。

 

品質がゼロだったら、量をいくらかけてもアウトプットはゼロ。

 

じゃあ、この品質をどうやって高めるのか。

 

それは数をこなすのが一番効率が良い。

 

量をこなせば、品質は自然に高まっていく。コストは下がっていく。

 

量があると、ブレイクスルーの確率が高まる。

 

サクサク量をこなせば、次の行動の選択肢が広がる。

 

逆に、品質を高めようとして慎重になりすぎると、アウトプット自体が止まってしまうリスクがある。

 

その人のレベルにもよるが、感覚的には2:1くらいで量の方が大事だと思う。

 

皆さんはどう考えます?

 

 

優秀だと言われる人に共通して当てはまること

優秀だと言われる人に共通して当てはまることがある。

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そのひとつ。優秀な人は利他的だ、ということだ。

 

どういうことか。

 

世の中にいろいろな仕事があるが、仕事はどれもこれも目的があって行われる。その多くが独りでは完結できず、分業して行われるようになっている。

 

シンプルにトマトを売るケースを考えても、トマトを作る人、収穫されたトマトを運ぶ人、そしてお店に届いたトマトを売る人。これだけの人が関わってくる。仕事、あるいは企図というものは、チームで関わることによって完結する。

 

ならば、良い仕事をするためにはチームとしてのパフォーマンスを上げる必要がある。上の例で言えば、作る人、運ぶ人、売る人でひとつのチームとみなし、そのパフォーマンスを上げることが大事だということになる。優秀な人はそれがわかっているから、チームのメンバー、つまり「他者」のために積極的に協力する。結果、優秀な人は利他的に振る舞っているように見えるだろう。

 

自分の仕事をうまくするためには、他者に協力することが早道なのだ。

 

フリーマン・ジョン・ダイソンというアメリカの理論物理学者がいる。その主張によれば、自然は人間に強欲と様々なかたちの愛情を与えたという。個人のレベルで生きるにはまず強欲さが必要だが、それだけでは生きられない。愛情があることで、家族、部族、文化、種、惑星のレベルまで協力しあって生きられるのだという。通じるところのある話ではないか。

 

つまるところ、高度に分業化された現代社会で、人は独りでは生きられない。多くの人と関わり合って生きている。良く生きるということと、多くの人と上手に関わることは密接な相関がある。優秀な人とは、そのことが良くわかっている人なのだ。