読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

貴方も賭け事は悪いことだと思いますか? (カジノ法案)

カジノ法案が衆院を通る見通しだそうだ。

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私自身は博打をやらないのだが、カジノ法案には基本的には賛成だ。経済が活性化するし。

 

賭け事というと、身を持ち崩すことがあるから駄目だというのが日本の風潮がある。でも、それは過保護なんじゃないだろうか。個人はそこまで国家に面倒を見てもらわなければいけないのだろうか。

 

賭博は闇社会の資金源になりうるので、現行法で規制されている。その視点からすれば国家が規制するのが正しい。でも賭博自体が悪かという意味にはならないと私は考える。

 

賭博で身を持ち崩した人がいるならば、それは賭博が悪いのだというよりも、自分をコントロールできなかったその人が悪いのだ。いわゆる自己責任論というやつだ。中東に飛んで内戦にテロに巻き込まれたジャーナリストを全て自己責任だと突き放すのであれば、賭博で身を崩してしまった人も自己責任だと処理することで問題ないはずだ。

 

孔子』も「飽食終日、心を持ちうる所なきは難いかな。博奕なるものあらずや。之れを為すは猶お已むに賢(まさ)れり」と言っている。意味は、何も考えずにブラブラと日を過ごすくらいなら、バクチでも打て。その方が賢い…ということらしい。

 

日本の古い道徳訓である『葉隠』にも、こんなエピソードがある。ある藩士たちが身を持ち崩した。ひとりは酒色に溺れ、もうひとりはバクチで身を持ち崩してしまった。酒と女で身を持ち崩したのは何の役にも立たないが、バクチは頭も使うし胆力の訓練にもなるので、失敗した藩士も何かの役に立つかも知れない。こんな話が出て、酒色に溺れた方は処罰され、バクチの方はお咎めなしとなったということだ。

 

まとめてみれば、古来から博奕は絶対悪ではなかったし、役に立つ面もあると評価されていたのだ。個人の自由意志がより尊重される現代にあって、賭博を過剰に規制する意味もないし、自由主義に反する。

 

シンガポールにも豪奢なカジノができたし、東京にもリトル・ラスベガスみたいなところができれば国際的にも面白いことになるだろうと期待している。

 

 

雪雲の向こうの青空

今週、飛行機に乗る機会があった。

 

行きの空港では新千歳空港行きのファイナルコールが繰り返し流れていて、行ったことのない北の地に思いを馳せた。もう札幌は雪だろうか。一度連想してしまうと止まらない。テレビで見たことがあるだけの札幌の雪景色が脳内に映り、BGMとしてGLAYwinter, againと、ユーミンBLIZZARDが妙な感じで交互にリフレインして困った。脳内ステレオか。考えようによっては豪華なものだ。

 

空を飛ぶ時いつも思うのだけれど、どこかのことわざにもあるように、「雲の上は常に青空がある」。

 

地上から見上げると厚い雲ばかりに覆われているような日も、飛び抜けてしまえば青空が待っている。曇りの日も雪の日も、雲の向こうにあるはずの青空の存在を意識できるかどうかで、人の幸せというものは随分と変わってしまうと感じた。

 

 

なぜ ポケモンGO が責められるのか考えてみた

スマホをいじりながらの運転が原因とされる事故が数多く報道されている。残念で痛ましいことだと思う。

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スマホをいじりながらの脇見運転は違法だ。カーナビなどの車両搭載の電子機器もメーカー純正品は運転中は操作できない仕様になっている。スマホをいじりながらの、いわゆる「ながら運転」は禁止されているのだから、さらに一歩進んで、この行為を厳罰化すれば事故抑制の早道だと思う。

 

具体的には「ながら運転」による事故には、危険運転致死傷罪を適用すればいい。

 

つまりは、飲酒運転と同等の扱いにすればいいのだ。感覚的には、飲酒運転よりも、「ながら運転」の方が違法性が高いと思う。「ながら運転」が不可抗力で行われる可能性はほぼ無い。大概、その人の意志でやっているはずだ。「ながら運転」厳罰化を!

 

 

とまあ、「ながら運転」については上述のように考えるのだが、どうも解せないのが、報道されるときに、「ポケモンGO」が槍玉に上がることだ。

 

ポケモンGOスマホで見るアプリのひとつであって、事故の直接の原因は運転中にスマホをいじっていたことである。批判するなら「ながら運転」それ自体であって、ニュースの構成としては、わざわざ特定のアプリを名指しで批判する必要はないと私には思える。

 

そこで、どうして「ながら運転」の事故が「ポケモンGO」事故に置き換わってしまうのか、考えてみた。

 

①実際に運転者がポケモンGOをやっていたから

実際にポケGOをやっていたなら、報道されても不思議じゃない。ニュースには事実が報道されるべきなのだから。しかし、もし運転者が、スマホはてなブログを見ていた場合、はてなブログの名前が出るだろうかと考えてみてもらいたい。答えはおそらくノーだ。「スマートフォンを操作中に事故」あるいは「スマートフォンでインターネット閲覧中に事故」等と表記されるはずだ。

 

ポケモンGOが流行りすぎていて、実際に影響・危険度が大きいと考えるから

これは可能性としてあり得ると思う。世界的に見ると、アクティブユーザーのピーク値が4500万人、今はピークアウトしたと言えども、2016年10月時点で3000万人を誇るビッグタイトルである。新規ダウンロード件数は他のアプリと同じ程度に収まったらしいが、これは新規加入の水準が落ちたというだけで、依然としてユーザーは多いと見るべきなのだろう。

 

③「全ての悪の元凶はマンガ」的な、あるいは PTA的なアレ

子供に人気のあるものは、何故か叩かれる運命にある。私はファミコン世代なのだが、子供の頃はファミコンをすると頭が悪くなるとか、目が悪くなる(これはまあ当たっている)とか、不良になるとか、今となってはよく分からない理由で周りの大人たちから批判されていた。保護者の心理からすると、子供が触れるもので悪影響があるものは排除したくなる。ポケモンGO叩きにもそういう側面があるのではないだろうか。

 

まとめると、特に②③から、ポケモンGOを危険視する層があることがわかる。もしそれが保護者を中心とする層だとすれば、ニュースの購買層とも重なる部分は大きそうだ。そうなれば、ニュースの発信者も市場原理からポケモンGOを危険視するニュースを流すよね。ああそうか、なるほどねー。

 

ニュースの報道の仕方は、直接の事故抑制対策としてはずれているけれども、子供を守るという観点からすると理にかなったものだというお話でした。(最初思っていたのと違う結論になりました)

 

 

 

フィデル・カストロ議長の訃報

キューバフィデル・カストロ議長が亡くなった。黙祷。

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キューバという国に、それほど思い入れのある世代に私は属していない。今50代くらいの人がドンピシャなのではないだろうか。私がキューバと聞いて思い浮かぶのは、カリブ海、革命、キューバ危機(ケネディ)、かっこいいアメ車の街、高級葉巻(コイーバ)、野球、砂糖プランテーションチェ・ゲバラフィデル・カストロ……。

 

日本とはそう関わりの無い国だけど、嫌いな人はそういない、陽気な国。そんなイメージだ。

 

革命を成功させた英雄たちの中で、フィデルカストロ議長は、チェ・ゲバラに比べて、ちょっと地味というか、人気の無いイメージがある。これはフィデルカストロが権力を握り、現実的に生きなければならなくなったのに対し、相方だった理想主義者のチェ・ゲバラはあくまでも理想を追求し、権力も富も放棄し、別の国で革命を起こすことを求めてキューバを去ってしまったからだ。しかも彼は、そこで革命の遂行中に夭折してしまった。どこからどう見ても、これ以上ない英雄的な行動だと言っていい。まあ、先に伝説になった英雄と比べられたらカストロ議長だって分が悪い。

 

しかし現実主義者や実務を回す人がいなければ、現実世界は回っていかない。多少地味でも人気がなくてもだ。しかもキューバは1959年の革命から、最もアメリカに近い社会主義国家として、ずっと米国からプレッシャーを受けてきた。その国のトップとして現実の様々な困難を捌いてきただろうカストロ議長には、余人にはちょっと想像できない苦労があったと思う。

 

とにかく冥福を祈りたい。議長の詳しいことが知りたい人は、チェ・ゲバラ伝を読めばいいと思う。

 

 

銀杏の産地 祖父江(そぶえ)

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こんにちは。たふたふです。

 

紅葉の季節ということで、近所の祖父江(そぶえ)というところにイチョウの紅葉を見に行ってきました。結構な人出があってにぎわってましたね〜。帰りに渋滞にはまって1.5倍くらいの時間がかかりました。

 

わたしもこれまで知らなかったんですけど、イチョウが有名ということで、この祖父江(そぶえ)というところは、銀杏で有名なんですね。調べてみて初めて知りました。銀杏というのは、茶碗蒸しとかに入っていると嬉しい、高級感のある緑色のお豆のことですね。秋の味覚のひとつです。

 

どうも2L 3.0g以上の銀杏はこの祖父江でしか育てられないみたいで、高級料亭から評価の高い、知る人ぞ知る銀杏産地だそうです。(公式サイト)

http://www.ja-aichinishi.or.jp/ginnan/about/rank.php

 

この秋は高級ブランドの銀杏をお取り寄せして、秋の味覚を存分に楽しまれると良いのではないでしょうか。

 

 

お隣さんの弾劾決議

韓国の歴代大統領は10人中8人が辞任後何らかの不幸に見舞われている。亡命・逮捕・自殺。周辺の親族も巻き込まれている。(ネット調べ)

 

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今、韓国のパク・クネ大統領が恐ろしく不人気で、弾劾決議まで通る可能性がある。

 

弾劾というシステムは、機構としてはあっても、成功されることというのはそう多くない。「彼弾劾者はこれだけ悪いことをしていますよ」と政敵が攻撃するための手段として使われることが多いように思える。相当に政情が不安定にならないと、弾劾というのは成立しないのだ。

 

弾劾によって無理矢理、国のトップを辞めさせる。しかも後を継ぐのは選挙で選ばれたリーダーではない。だからしばらくの間ゴタゴタしてしまう。弾劾機関から暫定政権の間、しばらく政治的・外交的な混乱が続いてしまう。これは不可避だ。

 

暫定政権の能力如何の話ではなく、それが暫定政権の宿命なのだ。仕事がきちんと引き継がれなければ、対応はどうしても粗が出る。しかも対外的には、すぐに変わる政権と本腰いれて付き合うような外国はない。

 

しかも中国が対外的な拡大政策を強めている時期と重なっている。弾劾決議後に、中国が何らかの動きを仕掛ける、具体的には島嶼部の領土拡大の動きを見せる可能性は高いと思う。韓国はセウォル号事件の時に、海上警備を行う海洋警察を解散(2015年に国民安全処として再編)してしまっている。これも隙になるだろう。

 

その時に暫定政権が米国から充分な支援が得られるかどうか。難しそうだ。しかも大統領が孤立主義者のトランプ氏に代わっていれば、なおさらだろう。中国もそこまで読んでいるように思える。

 

そういうわけで、大きな流れから見れば、大統領の弾劾は悪手と言えるだろう。もう避けえないのかも知れないけど。

 

手酷く追い打ちをかけることの比喩として、「水に落ちた犬を棒で打つような」という言葉がある。しかしここ数年の韓国には「水に落ちた犬は何としても皆で叩け」という風潮が観察される。儒教的な上下差の厳格さの裏返しなのかもしれない。

 

今後の韓国の幾つかの困難はもう避けることができないとしても、頼むから、大統領の暗殺だけは避けてもらいたい。それは法治・民主国家にそぐう処置ではない。水に落ちた犬には何をしてもいいということではないのだから。くわばらくわばら。

 

 

人生のリソース

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人は生きているだけで様々なものを消費する。現代人が生きて活動する上で、最低限欠かせないリソースがある。時間とお金と体力(気力)だ。

 

まず体力(気力)。何事も体が資本だ、というけれども、まず健康でなければ自由に動き回れない。体力(気力)が人より多ければ、より多く活動ができる。当たり前のことだけれど、忘れがちなことでもある。だから体力を鍛えていれば、その分人生を有意義に使えることになる。

 

次にお金。自給自足が基本の中世の時代ならいざ知らず、現代社会に生きる以上は、どんな山奥に行ってもお金から完全に逃れることは難しい。あれば何でもできるということもないけれど、最低限必要なもののひとつであるのは間違いないだろう。

 

そして最後に時間。ここでは自由になる時間、という意味だ。当たり前だが、バリバリに働いて高収入を得ても、自由時間がなければそのお金を使う暇もない。時間がなければ自分の好きなことはできないのである。

 

ところで、この3つのリソースは、年代別に価値が異なる。

 

例えば若ければ体力と時間は有り余っているが、お金は少ない。逆に社会に出て働くようになれば、お金が増え、相対的に体力と時間が減ることになる。

 

例をあげよう。JRの青春18切符というものがある。ちょっとした金額を払えば、鈍行列車乗り放題というサービスだ。

 

これはお金のない若者向けのものだけれど、少し見方を変えてみれば、切符代を安くする代わりに、その対価として、顧客となる若者は自身の時間と体力を支払っていると言える。

 

忙しいビジネスマンは時間のかかる鈍行列車なんて乗っていられない。高齢者は、鈍行に長い時間乗り続ける体力がない。だから、青春18切符は若者向けのサービスだというのだ。逆にビジネスマンが買う青春18切符は、とても贅沢だ。貴重な時間を惜しげもなくつぎ込むことになるのだから。

 

逆に新幹線は、金額が高い。けれど、東京ー大阪間を2時間ちょっとで駆け抜けるし、体への負担は少なくなる。見方を変えれば、新幹線のチケットを買うことは、時間と体力を、お金で買っていると言える。高齢者が新幹線に乗るのは贅沢でもなんでもなく、手持ちのリソースから導かれる、自然の選択なのだ。

 

現代人は一般に、若い頃、特に働き始める前までは、お金が一番貴重なリソースだ。逆に体力と時間は余るほどある。だからお金を得るため、節約するために、時間や体力と引き換えに、色々な工夫をする。引越し屋でバイトしたり、タクシーで行くような距離を延々と歩いたり。身に覚えがあるんじゃないかと思う。

 

社会に出て働き始めれば、一番貴重なリソースになるのは時間だろう。平日は仕事、下手をすれば週末も仕事。自由になる時間が全然ない。だから時間をお金で買うようになる。貴重な自由時間を移動だけで終わらせたくないというのは、誰でも思うことだろう。

 

そして、定年退職の時期を迎え、体の衰えを感じるようになれば、一番貴重なリソースは体力になるだろう。体力を保つために、お金を使ったり時間を使ったりする。病院通いを思い浮かべればわかりやすいだろう。

 

このように、人生のステージで、重要になるリソースが変わってくる。それぞれのリソースの価値が変動すると言い換えてもいい。もちろん人により例外はあるが、それなりに蓋然性がある話だと考えている。

 

大事なことは、自分の人生ステージと個別状況を重ね合わせてみて、自分のリソースを最適に割振れているか、確認することだろう。

 

社会に出て10年目を迎えるのに、いつまでも若い時のままのリソース配分では効率が悪いだろう。また、定年退職したのに働いていた現役時代と同じリソース配分であれば、人生はどこかちぐはぐな印象が出てきてしまうだろう。タクシードライバーのギアチェンジのように滑らかに、人生のリソース配分が出来ていれば格好いい。

 

自分の身を振り返って考えてみると、お金で時間を買う、体力を買うという考え方が身につくのが遅かった気がする。その分、人生を無駄にしているんだろう。もったいなかったとと思う。読者諸賢は人生のリソース配分を間違えないようにしてもらえればと願う。