読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

(補足)「騎士団長殺し」の他の感想を眺めてみて

 

いろいろ「騎士団長殺し」の感想を眺めてみまして、感想のなかに「エロい」「ロリコン」という意見があり、そういう感想がでることは理解できなくもないのですが、村上主義者の僕としては、多少の補足意見というか、村上春樹さんへのささやかな擁護をしたくなって自分なりの意見を書いてみました。

 

※ 細かい内容でネタバレがあります。

 

 

ーーーーーー キ リ ト リ ーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

たしかにセクシャルな描写は多め

 

もともと村上作品には性的な描写が多いです。村上さんが心理学者のフロイトを信奉しているということは聞いたことはありませんが、リビドーを強く意識しているのはどの村上作品を見ても明らかだと思います。「自己の内面を井戸を掘るように深く掘り下げ、真の自分に気づく」というテーマを小説で扱った場合、無意識の領域・リビドーの存在を避けて通るのが難しいのだろうと僕は推測しています。リビドーを導く一種の隠喩として、あるいは物語の飛び石として、セクシャル(性的)な表現が多いのだと思います。

 

 そのほか、セクシャルな表現は、一種のファッションというか、2時間ドラマでいう15分毎に挟まれる温泉シーン、ライトノベルでいうラッキースケベ水戸黄門でいう由美かおるさんに該当しているのだと考えています。つまり、読者サービスですよね。長い小説を飽きさせないようにという配慮もあるんだと考えています。

 

 

 でも、13歳の少女の胸の話を延々とするのはどうなのか

 

ここはがっつりネタバレをしないと話せないのです。前段として、ふたりの登場人物を紹介しなければなりません。12歳で心臓を患い亡くなった「私」の妹、コミチ(コミ)。そして、奇妙なほどに直感力に優れた13歳の少女、秋川まりえ。胸の話を延々とするのは(あるいはされるのは)このまりえです。(出てくるたびに、胸が小さいとかいつ膨らみ始めるのか、ブラがどうだというかという話になります・・・)

 

で、このふたりには共通点が多いです。

 

まず年齢が近い。直感力が優れている。ふたりとも【イデア】を見ることができたと推測される。「地底の世界」と、コミチは直接的に、まりえは関節的に、関わっている。このような共通点です。これらの共通点によって、あたかもまりえはコミチの生まれ変わりなのではないかと思わせるように書かれているのです。生まれ変わりでなくとも、ふたりは、たとえば「地底の世界」を通して、とても結びつきが強いと思わせます。物語の後半に「地底の世界」の住人である顔ながの言及もそれを裏付けます。

 

【 「私」が行方不明になった秋川まりえを探しているときのシーン 】

「それではお気をつけて」と顔ながは私にいった。「そのなんとかさんが見つかるとよろしいですね。コミチさんと申されましたか?」

「コミチじゃない」と私は言った。背中がすっと寒くなった。喉の奥が乾いて貼り付くような感触があった。一瞬うまく声が出てこなかった。「コミチじゃなく、秋川まりえだ。おまえはコミチのことを何か知っているのか?」

 

 

このふたりの共通性は、最初から明かされるのではなく、読者に対しては最初はメタファーで暗示されます。それが「胸」というキーワードなのです。「心臓の病」→「胸」という連想ですね。そして、「胸」というワードは、女性に対して使えば、「成長、とくに子供から大人への成長」というメタファーになります。(死んだ)コミチ:膨らむことなく止まってしまった胸 → (生きている)まりえ:これから膨らむ胸 …このようにつなげることで、ふたりのつながりを暗示し、かつ、死者であるコミチから生者であるまりえへ「何かがリレーされている」とも暗示できています。

 

さらに、「膨らむ胸=子供から大人への成長」というメタファーを繰り返し使うことで、まりえが「大人になりたがっている存在」だということを示せます。さらにメタファーの対象を変え、まりえと叔母を比較するとことで、「子供と大人を対比」させることができる。さらにメタファーの対象を変えて、まりえと彼女の母親だった女性とを比較することで、まりえの「成長への期待感」も示すことができます。

 

 

まりえは頷いた。私は勇気のある、賢い女の子でいなくてはならない。

「元気でおりなさい」と騎士団長は励ますように言った。それからふと思い出したように付け加えた。「心配しなくてよろしい。諸君のその胸はやがてもっと大きくなるであろうから」

「65のCくらいまで?」

 

注1:65のCはまりえの母親だった女性のブラのサイズ。いろいろあってまりえはそういうものを手に取って確認する機会が訪れたのだ。

注2:騎士団長はまりえや「私」を『諸君』と呼ぶ。相手が一人でも複数二人称で呼ぶ。ここでは『諸君』はまりえ一人のことを指している。おそらく、『諸君』とは、「イデアを見ることができる人間たち」という意味で漠然と使われているのだ。

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

そういうわけで、今作騎士団長殺しでねちっこく胸の描写があったからといっても、 村上春樹さんがロリータ趣味だとか、そういうことではないと、僕は思っているわけです。

 

 

 

そうは言っても・・・ 

 

村上さんご本人も結構いい年(68歳)だと言っても、毎朝走って体を鍛え、未だにフルマラソンを走るベテランランナーです。昔はウルトラマラソンという100キロメートル以上を走るマラソンを走ったということなので、体のつくりはもともと頑健、現在でも体力もかなりありそうです。健常な体にはそれなりの性欲があっても仕方ないのではないでしょうか。しかもエッセイを読むと、 女性がかなり好きというのは伺える。それがセクシャルな描写につながるのはわかる。けれど、村上さんはけっこうはっきりと、成熟した女性が好みなんです!・・・と思っています。

 

 

【 村上春樹さん エッセイ 】

 村上ラヂオ (新潮文庫)

 村上ラヂオ2: おおきなかぶ、むずかしいアボカド (新潮文庫)

 村上ラヂオ3: サラダ好きのライオン (新潮文庫)

 

 

 

ところで、僕が村上主義者になろうと思った理由

 

セクシャルセクシャル書いてきたので、公平を期すために、きちんと良いことも書いておこうと思います。

 

村上春樹さんはベストセラー作家であり、かつメタファーの名手で、人を酔わせる文章力の持ち主だと僕は思っています。それでまあ昔からそこそこファンだったのですが、はっきりとファン(村上主義者と巷ではいいます)になろうと思ったきっかけがあります。それが、村上春樹さんのエルサレム賞の受賞スピーチです。リアルタイムでその文章を知ったわけではないですが、2009年にガザ騒乱で国際的に非難を浴びていたイスラエルに出向き、そこで村上さんが自分自身の言葉でメッセージを発信したのです。スピーチには得意のメタファー(壁と卵)も印象的に使われ、かつ、言いにくいことをずばりと言ったかたちになりました。国際経験豊富な村上さんだからこそ、あの中東の国で、平和のメッセージを伝えることがどれだけ難しいことか、良くわかっていた。もちろん僕なんかが想像するよりもはるかに。高い視点から考え抜かれたスピーチは、読むたびに目頭が熱くなります。

 

<一部抜粋>

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるのでしょう?

 

 

 

全文はこの本で読めます。(P94〜101)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

 

 

小説家としての立場から、言えるぎりぎりを推敲し抜かれた歴史に残すべき名文だと思っています。学校の教科書に載せるべきだとすら思います。

 

 

そういうわけで、セクシャルな表現には理由がないことではないし、心を揺さぶる、日本人としての責任を果たせるスピーチもかけるし、村上春樹さんは、時代を代表するに相応しいとまで言っていいのかどうかわかりませんが、立派な小説家の一人だと、僕は考えています。