池袋暴走事故と対策案
痛ましい事故がまた起きた。87歳の男性が運転する車が池袋の道路を暴走。歩行者らを次々とはね、ごみ収集車、トラックにぶつかって停止。幼い女の子が含む3人が死亡。運転者を含む40~90代の男女8人が重軽傷を負った。
運転者は「アクセルが戻らなかった」と話をしているが、今のところ運転していたプリウスから異常は見つかっておらず、フットブレーキ・パーキングブレーキも使用したあとは見つかっていない。いずれ正式な調査結果が出るだろうが、事情はお察し・・・ということだ。
痛ましいけど、他人事ではない話
運転者は「いずれ運転免許を返納する」と話をしていたらしい。他人から見れば、「じゃあ早く返せよ」という話だろうが、車は日常の足だ。老齢になれば足腰が弱り、歩いての移動はもちろん、公共機関を使っての移動は難しい。複雑な経路を使う移動は若者でも一苦労だ。そうした状況で、「便利な自家用車移動」を手放すのは、よほど勇気が必要な決断だろう。高齢者当人が「まだ大丈夫だろう」と考えてしまっても自然なことだ。だが、加齢とともに大きな変化が必要なことを決断する判断力は弱くなっていく。大きな変化はたいがい痛みを伴う。そして、人間とは一般的に、加齢とともに痛みには弱くなっていくものなのだ。
87歳の運転者の経歴が徐々に明らかになってきている。勲章授与歴、通産省OB、一部上場企業の元副社長・・・。一般人よりも賢い人でなければ、これだけは華やかなキャリアは送れないだろう。しかしこんなキャリアを送った賢い人でも(逆に華やかなキャリアを送ったからこそかも知れないが)、結果として、免許返納の判断を誤ってしまった。我々のような一般人が免許返納のタイミングを間違えることは十分にありえる。
対策案:自動運転の早期実現
このブログの読者層を確認するすべがないのだけれど、広くみて、20代〜50代の範囲に入っているとことだと思う。ということは、読者諸賢ご自身に置き換えると免許返納など先の話なのだと思う。しかし、読者諸賢みなさまの祖父母・親世代はどうだろうか。70代〜90代で車を元気に運転している、という方は数多いのではないだろうか。
ある日突然の痛ましい事故を起こさないために、親や祖父母に、子や孫の立場から、免許返納を勧めることが大事だ。しかし、自分の肉親の日常の足を突然奪うというのは抵抗がある。
ここでは40代の子が70代の親に免許返納を迫るというケースを想定してみよう。まず親たちはまだ意志がはっきりしているので、おそらく素直に納得しないだろう。長い説得作業がある。移動が少なくなれば刺激が少なくなり、呆けてしまうのではないかという懸念もある。
代わりになる移動手段があれば良いが、バスや電車などの公共交通機関は、足腰が弱くなる高齢者にとって負担が大きい。3世代同居なら家族の持ち回り送り迎えすることで解決できるかも知れない。しかし同居していなければ問題はさらに難しくなる。
タクシーは悪くない選択肢だ。介護タクシーのような起業も選択肢にあるかも知れない。しかし、労働人口が減少する日本では、高齢者が運転するタクシーが高齢者の乗客を運んでいるのが現状だ。労働者の高齢化という問題の傾向は将来においても変わらないだろう。つまり問題の根本的な解決策にはなりえない。
そこで自動運転である。自動運転が社会実装されて一般的になれば、40代の子も70代の親が活発に外に出ていくのを安心していることができる。自動運転もまだ完璧ではないが、少なくとも痴呆高齢者が歩道の小学生の列に突っ込んだり、高速道路を逆走したりする可能性に比べ、自動運転のそれは相対的に低いだろう。
自動運転は未来志向の強い若者のための技術という認識が一般的だが、実はそうではないと筆者は考えている。高齢社会で高齢ドライバーが増える日本で、悲劇的な事故を防ぐための、有望な具体的解決策が、自動運転なのだ。
自動運転が早く社会実装されることを望む。
イタリア発イタリア着(内田洋子さん新刊)
イタリア発イタリア着
内田洋子
2019年2月発行
朝日新聞出版
エッセイとはなんだろう? 定義は? 他の文章の違いとは何か?
・・・とある人によれば、エッセイと他の文章を分けるのは「香気」の有無だそうだ。この文章には香気があるからエッセイ、無いからエッセイじゃない・・・。あやふやで主観的な定義だ。けれど、頷ける。
ある視点で切り取ることで、同じものごとや世界でも、見える世界の色が変わる。色が変わる。ものごとの角度がエッセイの肝で、エッセイストというのは視点の名手だと言えるかも知れない。
イタリア在住の内田洋子女史の新しいエッセイが出版された。
掲載されているエッセイは8編。「一 旅の始まり」「二 迷ったまま」と続き、「八 巡り巡って」で終わる。
イタリアでニュースソースを集め、日本に売る仕事をしている著者が、イタリアに来たばかりのころからが書かれている。はじまりは1970年代。すでに遠くなった昭和の追憶だ。
新しいものばかりに価値があるわけではもちろんなし。往時の遠国イタリアの日常の顔と、異文化に飛び込んだ当時の若き著者の戸惑いとタフさ、揺れる感情を知ることができる。 香り高いイタリアの往時の日常がわかるエッセイである一方、一人の日本人女性が寄る辺もないままに異国に飛び込んでいった冒険記でもある。
「もし語学が得意だったら、若いうちに異国に飛び込んで、職を得て働き恋をして、大冒険のような人生を過ごしてみたかった」
そんな想いを持って日々働く社会人や主婦の方にオススメしたい。このエッセイを通して、ひょっとしたらあり得たかも知れない、別の人生を想像してみるのも楽しい。
ビジョナリーな異能 堺屋太一さんを悼む
堺屋太一さんの訃報を今日知った。
2月8日に多臓器不全で亡くなられた。83歳。
惜しい人をなくした。とても残念だ。
元経済産業省官僚。小説家デビューして退官。
「団塊の世代」という言葉の生みの親として有名。しかも同名の小説「団塊の世代」で、ボリューム世代の高齢化が<民族の秋>を招くことを予言した。
小渕内閣のときに民間閣僚として経済企画庁長官を務めた。2008年の大阪府知事選挙で橋下徹氏のブレーン役として参陣。以降も(初期の)維新の会のブレーン役を務めた。
万博などのイベントごとに強く、愛知万博、上海万博、そして2025年の大阪万博誘致にも関わったのだそうだ。
本当にすごい人だと思っていたので、訃報に接し残念でならない。 とは言いながらも世間ではそこまで知られている人ではないと思うので、かの先生の凄さをここで語って置きたいと思う。
「知価革命」の凄み
私が堺屋さんの書いた知価革命という本を読んだのは、2002年頃だったと思う。古本屋で格安で手に入れた本で、これが堺屋さんの著作とのファーストコンタクトだった。本の要旨は、「モノがモノの価値(機能など)で評価される時代は終わり、モノに上乗せされるブランドや、情報それ自体が価値を持つ」というものだったと記憶している。
当時、この本はすごい! と思ったものだが、もっとすごいのはその本が1985年に出版されたものだということ。世の中の動向の予測精度に驚いた。
インターネット時代到来。ネットワーク上で情報が大量にやり取りされ、情報そのものが価値として認識される。
フェアトレードのように、ただのコーヒーではなく、途上国の働き手に適正な賃金を支払って収穫したポリコレなコーヒーであるという「ストーリー(情報)」が付き、300円のコーヒーが500円で売れる。
ブランドという情報がつくことで、服の値段が10倍になる。
プラスチックで出来た食器よりも、木製のもののほうがエコだという情報が付加され、高い値がつく。
仮想通貨がきっかけでお金の価値がゆらぎ、価値とは信用(=情報)だ、という説が出始める。
これらは21世紀の世相の一部だが、「知価革命」予言されていたことが、少しずつかたちを変えながら出てきているといえると思う。
堺屋さんの著作は多数あり、どの本も先見の明と歴史を俯瞰する教養にあふれているが、この「知価革命」が、堺屋先生の先見の明を鋭く表していると思っている。
名補佐役を描いた:小説「豊臣秀長」
堺屋さんの著作は「秀吉(文庫・全4巻)」が有名だが、それよりも白眉だと思う小説、秀吉の弟で補佐役として影のようによりそった豊臣秀長を描いた小説「豊臣秀長(文庫・上下巻)」だ。
戦国時代に秀吉が行った偉業を、どうやって実務化していったのか? という疑問と解答が、小説の中に盛り込まれている。堺屋さん自身が元官僚であり、国事や国家レベルのイベントに関わった経験があるからこその疑問、問いの立て方だと思う。そしてこの問いが、この小説を、決定的に、特異に、また面白くしている。
歴史書を読みこんでいるだけの学者では、歴史的な偉業ーー墨俣一夜城・高松水攻め・兵糧攻めなどーーをどのように実務に落とし込んだのだろうだとか、現場ではこういう問題が起こるはずだけどそれをどう解決したのだろうとか、そういう疑問自体が出てこない。
一般に歴史家の先生はなにを(What)を重視しますが、こういう歴史書は面白くない。なぜなら「なにを」がわかっても、現代に応用できないから。歴史はアナロジーの学問。だから、なぜ?(Why) どうやって?(How)という視点がなければ、歴史を学ぶ意味がない。
雄図の裏には、地味だ絶対に必要な作業がある。それをこなす人物がいなければ偉業は達成できない。そういう基本的な事実認識を強く与えてくれる良書だ。
弟・秀長を失った途端、残された秀吉は無謀な朝鮮出兵を強行し、失敗。豊臣家の家運を衰退させてしまうという終末は、歴史の影に埋もれがちな、有能な補佐役の重要性を教えてくれる。
ビジョナリーな人物像
堺屋氏は、戦後の経済発展を支えた護送船団方式が20世紀末では通用しないことを主張。1960年に経産省に入省したことを考えると、自分がまさにやっていた仕事を否定するような、当時はそうとうに鋭い匕首のような主張だったのだろう。
その他、首都機能移転や道州制などの地方分権、小さな政府、規制緩和、人口減に対する対策を訴えるなど、情報化社会、高齢社会、少子化社会を見据え、様々な提言をされた。
また景気刺激策に、万博を積極的に使う手法も採用していた。2020年の東京オリンピック以降の日本の景気動向が読めないなかで、堺屋さんが尽力した2025年に予定される大阪万博はひとつの道標になりうるものだと思う。
日本の将来を見据えたビジョンを描ける人は本当に稀な、異能の存在だ。その人を失ったことは、本当に残念でならない。ご冥福をお祈りいたします。
(2/16) 日経ビジネスにすごく良い記事が載っていたのでぜひこちらも。
「大いなる凡庸」を脱し、ひとりひとりが自分自身の幸せのかたちを追える社会を。
「メモの魔力」は発想術の書
知っている人は知っていると思うけれど、Showroom取締役の前田裕二さんという人が、昨年末に「メモの魔力」本を出した。前田さんは石原さとみの恋人のIT社長としても有名な人だ。ネットを見ない人でも、TVコメンテーターとして出演したりしているので、知っている人もきっと多いのではないかと思う。
「メモの魔力」というタイトルを見るとメモ術のようだけど、もう一歩踏み込んだ大変有用な本だったので、紹介したい。発想を豊かにしたい人や、クリエイティブな仕事や活動をしている人にはうってつけだ。
一般に言われているメモの役割
一般的にメモの役割は「忘れないようにする」ことだ。記憶だけだと忘れてしまうので、紙に書いておくわけだ。おつかいリストとか。
「記憶の外部保管」なんていう洒落た言い方をする人がいるし、メモをするのは「忘れるためだ」という人もいる。紙に書いたらもう脳に情報を保管しておく必要が無いから、脳のリソースを記憶から開放し、その分を思考に割り振ることができ、効率があがる・・・というわけ。
「メモで日常をアイデアに変える」「メモで思考を深める」
前田さんの立場は、従来のメモ術とは一線を画する。
彼はメモを取ることで日常をアイデアの宝庫に変え、メモで思考を深めるのだといい、さらにメモは人生における姿勢・生き方だとまで言い切る。ここだけ切り取ってしまうと飛躍があるように感じられるけれど、実際に本を読んでいるとなるほどと思えるのが不思議なところだ。
「メモで思考を深める」とは?
ここが最重要ポイントなので、繰り返します。僕のメモ術のエッセンスは、シンプルに3点です。
①インプットした「ファクト」をもとに、
②気づきを応用可能な粒度に「抽象化」し、
③自らのアクションに「転用」する。
前田さんはメモする事柄をみっつにわける。ひとつはファクト。次に抽象化。最後に転用だ。
どういうことかというと、まず「ファクト(fact)」は文字通り事実のことだ。
例えば、”コンビニAのスイーツをツイッターでよく見かける” などと書く。
そして、ファクト以降が重要だ。
「抽象化」は、ファクトで書いたことの本質を書く。事実の再解釈をする、といってもいいだろう。眼の前で起こっていることに対して、考察を加える。
例)”コンビニAのスイーツは手軽に買えて美味しいから取り上げやすいし、拡散しやすい”
最後の「転用」は、抽象化した事柄をまた具体的な行動に焼き直すという作業だ。メモをとっただけでは何の意味を持たず、メモを通して学んだことが、実際に自分の行動に反映されなければ意味がない、というのが前田さんの考え方だ。まさに実践者。
例)”自分も美味しいコンビニスイーツをツイートすれば、いいねをもらえるかも”
抽象化がキモ
ここまで記事を読んで、勘の良い方はお気づきだと思うが、このメモ術は抽象化がキモだ。ファクトから質の良い抽象化できるかどうかで効果が格段に違う。
抽象化とは、端的に言うと、「具体的な事象の本質を考える」ことです。
抽象化とはつまり、思考を深めることだ。その目的は、再現性・汎用性を見出すこと。汎用性が高ければ高いほど、他のことに転用できる可能性があがり、効果は高まる。
じゃあどうすれば良いのか。というところも言及がある。やり方はやはり3つある。
例えば、目の前の現象や考え方を抽象化して、また別の名前をつけて呼び直す。これは「What型」と呼べるでしょう。一方で、目の前の現象にはどんな特徴があるか、ということを深掘りして考える。これは「How型」と呼びます。そして、ヒット映画があたった理由を抽出して、また別の企画に転用したい。このとき僕らは自分の心に、「Why?」と問うでしょう
3つのうち、「How型」と「Why型」は抽象化できれば価値がより高いそうです。転用の幅が広がり、また転用したときのインパクトが大きいのだそうです。
終わりに。自分の中に課題があればより効果が期待できる。
具体的な課題が自分の中にないと、特に抽象化するモチベーションはあまり湧かないでしょう。そういった意味で、この、「解くべき課題の明確化」は、抽象化の前段階において、ビジネスパーソンがまず向き合わねばならない問題かも知れません。
自分の中に解きたい課題を持っていないと、この発想術は使いにくい。無目的に考えても、抽象化の指針がつかみにくいのです。まあ現状に不満のない人は、どんなメソッドもそもそも不要ということなんだけど。
問題意識を高く持って生きることが大切ということですな。
ところで、村上春樹「スプートニクの恋人」で、すみれという女性が登場する。この女性は独白の中で、「自分は書かなければ思考できない。書くことで初めて思考できる」と言っていた。
すみれほどじゃないだろうけれど、頭の中だけでは思考が深まらない。書くことで、つまり明確に言語化することで、考えが深まる。その考えを深めるための手法を可能な限り仕組み化して一般化したのが、この「メモの魔術」だと感じた。
思考をするとニューロン回路に微弱な電流が走り、その経路が思考アルゴリズムだという。しかし、普通、何をどう考えているか、他人の頭の中は覗けない。逆に、他人に自分の思考を伝えようとしても、すべて伝えることは難しい。そして、伝える手段は言語しかないことに気づくだろう。考えていることをすべて伝えるのに、言語では不十分だということにも気がつく。
そう考えると、思考アルゴリズムを極限まで物質化し、メモというメソッドに落とし込んでくれた前田さんの存在が、とても貴重だと思えた。
2018VR産業大会(in 南昌)が楽しそう
今、中国の南昌でVR産業大会が開催されているそうだ。(10/17-22)
面白いツイートが回ってきてテンションがあがった。
VR内の歩行をやっべぇ方法で実装してるコンテンツがあった。。。
— ばやしこ@10/17~22 VR产业大会 in 南昌 (@bayashiko_r) 2018年10月21日
もう分からんなこれ。 pic.twitter.com/QmhGdjHFlh
すごいぞ〜どれも大型筐体しかないぞ〜!!VR Zoneの金のかかり方の比じゃない。
— ばやしこ@10/17~22 VR产业大会 in 南昌 (@bayashiko_r) 2018年10月20日
韓国のGyro VR
SEGAのおなじみMortal Blitz
謎の異彩放つVirtusphere
ヤッベェぞ❗️ pic.twitter.com/PrWMEbIljy
(VR産業大会 南昌 公式HP_Eng)
南昌は華南の街で上海から西に700km。2016年に訪れたときは都会というよりも街という感じ、中国の中では特に発達した都市ではないと感じていたけど、それでもこれほどの展示会を開けるのがすごい。
中国人は、新しい技術に貪欲というか、本当に一瞬たりとも物怖じしないのがすごい。国だけでなく地方政府もがんがん新技術にbetしている。
文化として、完璧なものを求めない、というのがある。とにかく早くやる。うまく行かなければその場で手直しする。うまく行かなければそれはそのとき考える。それがとてつもない速度を生んでいるのだ。
VRゲームはまだ黎明期で、フォーマットは旧来のコントローラー式を使っているが、そのうちゲームセンターに体験型VRゲームコンテンツが取り込まれるのだと考えている。
VR内の歩行をやっべぇ方法で実装してるコンテンツがあった。。。
— ばやしこ@10/17~22 VR产业大会 in 南昌 (@bayashiko_r) 2018年10月21日
もう分からんなこれ。 pic.twitter.com/QmhGdjHFlh
そのときの筐体は、こんなかたちで自分の移動が反映できるスフィア型がフォーマットになるのではないだろうかと妄想した。マルチプレイになると、前後左右でぶつかりそうで危ない感じ。
ちなみに下は今年4月にオープンした新宿にあるドラクエVRの動画。(動画1分くらいからプレイしている様子になる)
小説ではVRゲームの筐体は、ベッドに横たわるタイプが主流だったけれど、 まずは人間の肉体にダイレクトに疑似体験させるインターフェイスが選択されるのだと思う。
いやー、楽しそう。行ってみたかった。。。
「戦争が無くならない理由はなんだと思う?」キングコング西野さんとタモリさんの会話
キングコング西野さんと、タモリさんとが、「戦争がなくならない理由」について話している場面があった。本質をつく話をする二人だ。タモリさんはこう問いかけた。
戦争が無くならない理由はなんだと思う?
それはな、人間の中に『好き』と言う感情があるからだ。そんなものがあるから、好きな物を他人から奪ってしまう。また、好きな物を奪った奴を憎んでしまう。ホラ、自分の恋人をレイプした奴を『殺したい』と思うだろ?
でも、恋人のことを好きじゃなかったら、攻撃に転じることはない。残念だけど、人間の中に『好き』と言う感情がある以上、この連鎖は止められないんだよ。
『LOVE&PEACE』という言葉があるけど、LOVEさえなければ、PEACEなんだよ。その生き方は、かぎりなく動物や植物の世界に近いな。ただ、『好き』がない世界というのも、ツマラナイだろう? 難しい問題だよ、これは。どうしたもんかね?
これに対するキングコング西野さんの答え。筆者なりにまとめた。
「戦争をなくすには、”好き”をエンタメに向けさせ(あるいは分散させ)続ける。そしてそのエンタメを自分は提供し続ける。エンタメに”好き”を向けさせることができなくなったら戦争になり、それはエンタメの敗北だ」
間違ってはいないのだろうけれど、正しいとも言い切れないなあ、というもやもやした感想だった。それを筆者の記憶の片隅においたまま数ヶ月を過ごしていたのだけれど、今日、こんなツイートを目にした。
知人のムスリムの人達12人に聞いた「日本でイスラム系のテロが起きない理由(複数回答)」ベスト5
— 青木文鷹 (@FumiHawk) 2018年10月14日
①ご飯が美味しいから、
②夏暑すぎてやる気が起きないから、
③欧米に比べて差別が少ないから、
④日本人が優しいから、
⑤特番でアニメ放送が中止になると困るから____
このツイートを見て、「いつかのキングコング西野さんの話はやはり正しかったんだなぁ」と思ってしまった。天啓のようだった・・・は言い過ぎだな。
とにかく、人間の、というよりも動物の本能として、美味しいものが食べれて面白いものが生活の中にあれば、戦争しようなんて思わないものなんだ、と。
日々をうまく生きられない人が多くなると不満が募って、はけ口を求めようとする。そうした不満をそらすために、あるいは不満を利用して、為政者やマスコミが戦争への火口を作る。
でも、美味しいご飯や優れたエンタメは、人間の戦意と憎しみを削ぐことができる。
抑止力としての武力の保持を否定するつもりはない。けれど、本当はみんな戦いを避けられるなら避けたいと、心のなかで思っているはず。だから、こうやって人間の本能へ訴えかける美味しいご飯やエンタメも、捨てたもんじゃない。
北風と太陽の童話でたとえたら、太陽側のお話。あれは童話だからすぐに旅人のマントを脱がせることができたけれど、現実で同じようなことを実現させるのは、とても難しい。でも美味しいご飯やエンタメで戦争が避けれたら、世界を変えることができたら、最高だと思う。
有史から続いてきた人間同士の争いを、美味しいご飯やエンタメで無くすことができたら、人類もようやく次の段階に進化したと言えるかも知れないじゃないか。
3ヶ月ブログを休んでみて
タイトル通り、3ヶ月ぐらいブログを書かなかった。
たいした理由はない。書きたくなかったから書かなかった。自分の心情をもっと掘り下げみたが、「ちょっと飽きちゃった」くらいの感想しかなかったので、書かなくなった理由については以上だ。それよりも、3ヶ月ぶりに自分のブログを見返してみて、わかったことがあった。
3つあったので、順に書いていく。
1)アクセスは意外に減ってない
3ヶ月以上の間、記事を書かなかったわけだが、アクセスは意外にも減っていない。
「アクセスを増やすには毎日更新、◯◯文字以上!」というのが世の中のルールだと思っていたが、そうでもないらしい。まあ、デイリーで数十PVという、とてもささやかなブログなので、ルールの対象外なのだと理解した。でもAmazonのアフィまで発生していて、親切な人もいるものだと思った。合掌。
2)記事の中休みの葉っぱの画像がイケてない
長めの文章だとダレるので、場面の切り替わりのときに中休みの意味も込めて画像を貼っている。最初の頃はいい感じのフリーの画像を探して貼り付けていたのだが、それも手間だと感じるようになり、専用の画像を作ってそれを貼ろうという考えで、葉っぱのバナー的なモノを作って、それを文章の中休みで貼るようにした。
作った当時はまあ良いかと思ったが、時間をおいて冷静になって見ると、まあひどい。
今回から可愛い動物の画像を貼ることにした。
(癒やされる・・・)
なお、記事の質がどうかとかそういう根本的な話もあると思うのだが、それについてはどうか読者諸賢の華麗なスルー力を発揮して欲しい。
3)書くことはなんだかんだ言っても楽しい
今週末は台風のせいで外出できなかったので、ずっと家に引きこもっていた。それでさすがに暇になったので、放置していたブログを確認した、というのが経緯だ。
なんだかんだ言っても自分は何かを書くことが楽しいのだと思う。拙い記事もあるが、まあこれはこれで味があるということで問題解決としておきたい。
まとめ
そういうわけで、今後もちょいちょい自分のペースで書いていこうと思う。
思い出したようなタイミングになるかも知れないけれど、まあそれはそれで、ということで。
それではまた。