【リスクと生きる、死者と生きる】
ほぼ嗅覚で予約してみました。石戸諭さん著。
8月6日(広島)、9日(長崎)、そして8月15日(終戦)が過ぎてからの発売でタイミングが悪いような気もするけれど、きっと一過性のブームで終わらせたくないんだってことなんだと勝手に解釈している。
(Amazon紹介文より)
「リスク論」からこぼれ落ちる生を探し求めて、東北、そしてチェルノブイリへ――。
若き記者による渾身のノンフィクション。岸政彦さん、星野智幸さん、推薦!
「被災地」は存在しない。「被災者」も存在しない。 土地と人が存在するだけだ。
「それでも生きていこうとする人々」の物語が、胸を打つ。
(岸政彦)ここには、あなたを含め、この本に書かれていない被災した人すべての物語が、ぎっしりと詰まっている。
その見えない言葉に目を凝らして、読んでほしい。
(星野智幸)
文学のポテンシャル
1.ツイッターで話題になった文学の意義
文学の意義とはなんでしょうか。
文学部で学ぶ意義とは、翻って言えば文学の意義ですが、それについて語ったつぶやきが先日ツイッターで流れてちょっとした話題になっていました。
理系学部の意義、法経済学部の意義はビジネスに直結、つまりは世の中の仕事に直結しているために語りやすいですが、文学部の意義というのは確かによくわかりません。世の中では直截に「どうせモラトリアムだろ?」と言ってしまうひともいます。
そのある学長が語ったツイッターでは、乱暴に要約してしまえば、「文学は人生で重大な決断をするときに役に立つ」と仰られています。
文学、特に古典は、時間の審判を経て残っているものです。こうしたものは脈々と受け継がれているだけあって、古人の叡智、人間の普遍が込められています。これらを学ぶことは、たしかに人生を生きていく上で役に立つでしょう。それが経済的成功に直結しないだけです。人生はお金の多寡だけで示せるものではないのです。
2.ものたりない
しかし、この回答が正だと思いつつも、物足りないなあ、とわたしが感じたのは事実です。
「だったらわざわざ大学で学ばなくても、自分で本を読めばいいじゃないか」というツッコミも妥当と思えます。まあ、本というのは一人で学べるよう設計されたメディアですから、まったくその通りなんですよね。
だから、文学という学問は、新たな展望を開かなければならないのではないでしょうか。
3.役に立つものは本来的にお金になるはず
そういうわけで提言を3つくらい思いついたのですが、あんまり書くとウザいのでひとつだけ。
つっこませてもらうと、人生の役にたつというなら、マネタイズできていないのはおかしくないですか? 確かに人生に役立つ場面があるのだから、文学をマネタイズできるビジネスモデルがあると思うんですよ。それを探すべきなのではないでしょうか。
(文学作品そのものを売る、というのはあまりにも使い古されたモデルなので、ここでは議論せずに置いておきましょう)
思うに、文学作品そのものだと文体も古いし、難解だし、スマホ情報が飛び交う今の時代だと、内容が濃すぎると思うんですよ。だから文学作品の内容を薄めて、作品のコアとなる普遍を分解して取り出してくれる「希釈者」がまず必要ではないかと。そのうえで、現代でも受けるコンテンツに料理し直して市場に出す。企業がそれをやるなら、「希釈・分解」と「現代的なコンテンツに再料理」する過程で文学の専門家が必要になるはずですよ。
たとえば、日本の恋愛小説の端緒である源氏物語は、言い換えれば女性の恋愛ポジショニングの参考書としても読めるはずなんですよ。例に引きやすいところであげると、花散里という女性は、美人ぞろいのチーム光源氏のなかにあって美人ではなかった。しかし癒し系と言える性格で光源氏の心を最後まで捉え続けていた。この花散里みたいになりたいという人というのが一定数いるとしたら、その指南役やセミナー、サロンのような事ができるかも知れません。商業ブログとも親和性があるかも知れませんね。
繰り返しになりますが、役に立つものは本来的にお金になるはずなのです。それができないのは、あえて言い切りますが、やり方を編み出せていないだけなのです。現代のコンテンツ時代には、文学は親和性が高いはず。
4.高いポテンシャルを活かせないのはもったいない
人間がコミュニティを起こす場合。石器を振り回すような人たちが、まず身振り手振りから始まり、農業の習得と同時期に共同体のなかで通じる言葉を発生させ、そして文字が発生することで、時代や空間を超えた複雑なコミュニケーションを可能にします。
そしてカタコトのコミュニケーションがだんだん語彙と表現が増えて長文になり、だんだんと詳細なニュアンスや事実の表現を可能にしてくれます。そしてそれが一定レベルになると、文学が発生してきます。
各国の文学を見れば、民族の思考特性と文化のレベルを示してくれると言えます。逆に言えば、代表的な文学を持たない国は、独自の文化の変わりに周辺国の強い影響を受けていると推定できるということです。もし日本に源氏物語が生まれなければ、日本の言語文化のレベルはその程度で、日本は独自性の無い、どこかの属国として存在していたかも知れませんね。
文学は、独自文化の形成の過程でとても重要な役割を担っています。その文脈でいうと、文学のポテンシャルはとても高い。一般的に、ポテンシャルを活かし切れないのは、使う側の人間に課題があります。課題の置き場を間違えると、導かれる答えはどうしても的がずれてきますよね。
本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。
時代に適応するというと大げさだけど、雨が降ったら傘をさしますよね。そんなものだと思います。
知覚できない変化で、行動を変えるのは無理だけど。
1.ファミレスにて
ファミレスに行ったら、高校生ぐらいの女の子が4人、4人席に集まっていたんですよ。通路を挟んで離れた席に自分は座ったんですけど、そう混んでもいなかったし、女の子たちも声をひそめる気配がなかったので、その気もないのに内容が聞こえてきます。どうも、文化祭かなにかで、ステージ企画をやるので、その打ち合わせのようです。ときおり低く歌いながら手でフリをやっています。
いまはAKBのような手作りアイドル時代だからか、ステージ上の振り付けや移動、人の出番にいたるまで全部生徒の手作りなんですね。フリの良し悪しやメンバーの移動を直線じゃなくて円にしようかどうかとか議論していました。まあ、傍で聞いていても何が良くて何が悪いのかまったくわかりません。
2.ところでマスの実験
ところで話はまったく変わるのですが、「マスの実験」というのをご存知でしょうか。マスは魚のマスです。
上から見て長方形の水槽。この縁に沿ってマスが気持ちよく四角を描いて泳いでいるところに、対角線に沿ってガラス板をいれます。そうなると当然マスも水槽の縁にそって四角く移動できませんから、対角線のガラス板にそって、三角を描くように回遊するようになります。そうなってからガラス板を取り出すと、マスはどう回遊するでしょうか。皆さんご存知だと思いますが、マスは再び水槽にそって四角く泳ぐのではなく、存在しなくなったガラス板にそって、三角に泳ぎ続けるのです。
このマスと同じように、人間も自分で知らず知らずのうちに限界を設定してしまって、その限界が取り払われたあとも、その限界から飛び出せなくなる。人間はマスになるのではなく、人間らしく外に飛び出すべきだ。巷ではこの実験はそういうふうに語られます。
しかし、考えてみると、随分と酷な話です。
マスは魚に過ぎませんから、ガラスという透明な物質の存在を知りません。ゆえにマスは「理由はわからないが、経験によって、ここより先には行けない=世界とはそういうものだ」という高度な学習によって、三角に泳ぐようになっているわけです。ある意味で、三角に泳ぐマスは訓練されたマス、環境に適応したマスだと言えます。しかもその環境の変化(対角線上のガラス板)は、マスにとって知覚できないのです。人間に例えれば、人間に4次元を知覚させようとするようなものです。うーん、ハードモード。
3.知覚できない変化で、行動を変えるのは無理だけど。
知覚できない条件の変化を、無理に知覚してまで、自分の世界を広げる必要はないんじゃないの? と考えました。
だって自分の能力や時間のリソースは限られているわけだし。知覚できないものに対してトライを繰り返すのは効率が悪すぎる。与えられた条件の中で、良い結果を出すことにリソースを配分したほうが、よほど合理的です。
けれど、自分が知らず知らずのうちに設定している限界があって、その向こう側には自分が知らない世界がある、ということは知っていたほうがいい気がします。
一番最初の話に戻るなら、あの女の子たちと一緒に何かやることは一生ないでしょうけれど、でもイマドキの女子は自分たちでステージ企画を体験する機会があって、能力もある。そういう草の根活動的なものが存在している。そういうことを知っているのは有益な気がします。
つまり、身近には自分の知らない世界があり、自分はその世界を選ばずに生きているのだということ。知らない世界は何かをやろうとするとき、決断するときに不確定要素になりえますからね。自分の知らない世界があることを知っているだけで、思考は随分と正確になり、他者とわかりあえるのでしょうね。
そうか、これがいわゆる「バカの壁(養老孟司さん)」なんですね。自分が知らないことを知ること、知らないことを無いものと扱わないで知ろうと試みなければいけないこと。忘れていたことを思い出した日でした。
本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。
長い文章もたまには書いてみました。
目指す憧れの人を持つと成長が早くなるという話
憧れの人がいると、成長が早いんですよね。
憧れの人っていうのは、「こうなりたい」と思うからこそ憧れの人であって、それはつまり自分にとっての目標とかお手本という意味なんですよね。格好良く横文字でロールモデルと言い換えることもできますね。
憧れの人 イコール 人生のお手本
物事を習得するときに、お手本があったほうが習得が早いっていうのは当たり前のこと。お手本を見て、言葉では表れない微妙なコツややり方を学ぶことができます。物事を習得するときに非言語の情報っていうのは結構あって、しかもそういう微妙なところほど大事だったりするものですよね。
「この人みたいになりたい」っていう願いには、いろいろな想いが込められていることが多いです。
その人の性格、考え方、判断、振る舞い、雰囲気……どれも言葉では言い表せないものです。
けれど目指すものが曖昧だからと言って習得できないということではなく、憧れの人を真似ることで、少しずつ近づいていける可能性がある。
重大な判断をするときに、憧れの人あの人ならどうするだろう、と考えることで、良い判断をくだすことができます。ひょっとしたら、これを読まれている方にはそういう経験をされている方もいらっしゃるかも知れませんね。
憧れの人、というのは目標とイコールですから、立派であればあるほど良いと言えます。けれど、あまりに自分との距離がありすぎても目指す心が折れてしまうので、下のレベルというと印象が悪いですけれど、自分により近い憧れの人を何人か持つとさらにうまく行きます。
自分の世間を広く持って、憧れの人をみつけよう
自分の目指す憧れの人を持つには、できるだけ自分の世間を広く持つのがコツです。
人の質は、その人の集団の母数が増えれば増えるほど、高くなるものなので、狭い世間のままで、憧れの人を持つことは難しいかも知れません。
10人中1位の人を憧れの人を選ぶよりも、1000人中1位の人を憧れの人を選んだほうが、よりベターな人を選択することができる、とそういうことです。
もちろん10人から憧れの人を選ぶこともできますし、その一人がとても素晴らしい人であることもあるでしょう。そのときは貴方が非常にラッキーだったということです。神様の配剤に感謝しておきましょう。
ちなみに筆者の場合は、狭く世間を使っていたので、憧れの人というのを持たない子供時代を過ごしました。憧れの人をもったのは、10代も終わりに差し掛かったころだったと思います。だから成長も遅かったと思いますし、昔を振り返ってもったいないことをしたなあと思います。
今はネットのおかげで、自分からアクションを起こせば、たくさんの人につながることができます。ネットやSNSの他にも、知人や本やマスコミを通して、憧れの人が見つけられるはず。
そういう意味で、今の若い人は自分の「憧れの人」を見つけることができる可能性が高く、また成長も早いのだと思います。有利な環境でうらやましい。
世間を広く使って、憧れの人をどんどん発掘すれば、貴方の成長はどんどん早くなるはず。
自分の目指す憧れの人を思い描くだけで、自分の背筋がピンと伸びる気がしますよね。
【月の満ち欠け】
佐藤正午さんが「月の満ち欠け」で第157回直木賞を受賞されました!
昔からこの方の文章は好きなんですよ。なんだかしっとりとした手触りがあって、しかも艶があるんです。文章の評価の仕方としておかしいのかも知れませんが、でもそういう感じです。
でも佐藤正午さんの本を手にするのは「Y」か「ジャンプ」ぶり。もう10年以上前なんですね……。寡作な作家さんなのです。ご本人も1955年生まれということで、もう還暦過ぎての直木賞受賞ですよ。めでたいですね…!
今作の「月の満ち欠け」は流行りの生まれ変わりモノですが、生まれ変わる本人視点ではなく、周囲の視点から物語が描かれています。なので、単純な感動ものではなく、ひと味違った読後感が味わえると思います。生まれ変わりというのは、良いことばかりではなく、一種の呪いなのかも知れませんね。
かつて願った未来のまっただなかにいる今
突然ですけど、アウディの新型A8にはついに世界初の自動運転機能(レベル3)が搭載されるそうですね。
VRはすごくリアルな世界が味わえるし、VALUで個人で株式発行みたいにお金を集められるようになっているし、ドローンがその辺を飛んでいるし、なんだか未来がやってきているなあというのをひしひしと感じる今日このごろです。
文章を公開するにも、絵を書くにも、音楽を作るにも、動画を流すのもデジタルで簡単に、しかもたやすくコピーして配布できるようになって、無限とも思えるくらいの情報が日々流れて消えていく。それも手のひらに収まる大きさのスマホから、とても気軽に情報の滝に触れることができる。情報源といえば、雑誌かテレビ、それに人ぐらいしかなかったひと昔前に比べると、隔世の感がありますね。
何が言いたいかといえば、「むかし思い描いていた未来が、いままさにやってきているのだなあ」ってことです。「何を当たり前のことを。当たり前だろ、アホちゃうかこいつ」などとお思いかも知れませんけど、スマホで買い物をすると物品が届くというだけでも、冷静に考えてみると、本当にすごいことですよね。技術とビジネスのしくみが組み合わさって、とても便利なサービスが実現できているんですから。
かつて願った未来のまっただかにいるのに、日々の忙しさにかまけて、その未来を当たり前のもののように受け止めてはもったないと思うのですよ。
日常の風景が新しい未来に塗り替えられて変わっていく。変化していく。それはとてもおもしろいことですから、見落とさないようにしたいものですね。
【未来の年表 人口減少日本でこれから起きること】
未来の年表 人口減少日本でこれから起きること (講談社現代新書)を購入し、ちょうどいま読んでいるところなのですが……。この本はこれからの社会人・学生を問わず、必読の参考書のような気がしています。
というのも、未来の予言の書としてとても役立つと思うからです。この先10年というスパンで考えたとき、ミクロな条件はいくらでも変わるので予測不可能ですが、人口というマクロな条件はほぼ変わりませんからね……。
日本人全員の課題が書かれた、試験で喩えれば問題文のような本です。解答は個々人で考えてください、というような。きっと3年後くらいに真面目に取り沙汰されるようになってくるので、今のうちに読んでおけば先回りして対策が打てるかもです。
人口減少カレンダー
2018 75歳以上人口が「65〜74歳」人口を上回る
2020 女性の過半数が50歳以上
2023 団塊ジュニア世代が50代
2024 団塊世代がすべて75歳以上
2026 高齢者の5人に1人が認知症患者とすると、患者数 約730万人
2040 団塊ジュニア世代がすべて75歳以上
なお本書には解答例もありますけれど、こちらについてはやや懐疑的ですね。使える情報だけ抜き取るような読み方をオススメします。