この世はしょせん夢芝居

考えたこと、趣味の読書のことをメインに書いています。いわゆるチラ裏です。

知覚できない変化で、行動を変えるのは無理だけど。

1.ファミレスにて

 

ファミレスに行ったら、高校生ぐらいの女の子が4人、4人席に集まっていたんですよ。通路を挟んで離れた席に自分は座ったんですけど、そう混んでもいなかったし、女の子たちも声をひそめる気配がなかったので、その気もないのに内容が聞こえてきます。どうも、文化祭かなにかで、ステージ企画をやるので、その打ち合わせのようです。ときおり低く歌いながら手でフリをやっています。

 

いまはAKBのような手作りアイドル時代だからか、ステージ上の振り付けや移動、人の出番にいたるまで全部生徒の手作りなんですね。フリの良し悪しやメンバーの移動を直線じゃなくて円にしようかどうかとか議論していました。まあ、傍で聞いていても何が良くて何が悪いのかまったくわかりません。

 

 

 

 

2.ところでマスの実験

 

ところで話はまったく変わるのですが、「マスの実験」というのをご存知でしょうか。マスは魚のマスです。

 

上から見て長方形の水槽。この縁に沿ってマスが気持ちよく四角を描いて泳いでいるところに、対角線に沿ってガラス板をいれます。そうなると当然マスも水槽の縁にそって四角く移動できませんから、対角線のガラス板にそって、三角を描くように回遊するようになります。そうなってからガラス板を取り出すと、マスはどう回遊するでしょうか。皆さんご存知だと思いますが、マスは再び水槽にそって四角く泳ぐのではなく、存在しなくなったガラス板にそって、三角に泳ぎ続けるのです。

 

このマスと同じように、人間も自分で知らず知らずのうちに限界を設定してしまって、その限界が取り払われたあとも、その限界から飛び出せなくなる。人間はマスになるのではなく、人間らしく外に飛び出すべきだ。巷ではこの実験はそういうふうに語られます。

 

しかし、考えてみると、随分と酷な話です。

 

マスは魚に過ぎませんから、ガラスという透明な物質の存在を知りません。ゆえにマスは「理由はわからないが、経験によって、ここより先には行けない=世界とはそういうものだ」という高度な学習によって、三角に泳ぐようになっているわけです。ある意味で、三角に泳ぐマスは訓練されたマス、環境に適応したマスだと言えます。しかもその環境の変化(対角線上のガラス板)は、マスにとって知覚できないのです。人間に例えれば、人間に4次元を知覚させようとするようなものです。うーん、ハードモード。

 

 

 

 

3.知覚できない変化で、行動を変えるのは無理だけど。

 

知覚できない条件の変化を、無理に知覚してまで、自分の世界を広げる必要はないんじゃないの? と考えました。

 

だって自分の能力や時間のリソースは限られているわけだし。知覚できないものに対してトライを繰り返すのは効率が悪すぎる。与えられた条件の中で、良い結果を出すことにリソースを配分したほうが、よほど合理的です。

 

けれど、自分が知らず知らずのうちに設定している限界があって、その向こう側には自分が知らない世界がある、ということは知っていたほうがいい気がします。

 

一番最初の話に戻るなら、あの女の子たちと一緒に何かやることは一生ないでしょうけれど、でもイマドキの女子は自分たちでステージ企画を体験する機会があって、能力もある。そういう草の根活動的なものが存在している。そういうことを知っているのは有益な気がします。

 

つまり、身近には自分の知らない世界があり、自分はその世界を選ばずに生きているのだということ。知らない世界は何かをやろうとするとき、決断するときに不確定要素になりえますからね。自分の知らない世界があることを知っているだけで、思考は随分と正確になり、他者とわかりあえるのでしょうね。

 

 

 

そうか、これがいわゆる「バカの壁養老孟司さん)」なんですね。自分が知らないことを知ること、知らないことを無いものと扱わないで知ろうと試みなければいけないこと。忘れていたことを思い出した日でした。

 

 

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

長い文章もたまには書いてみました。