続)騎士団長殺し (読書途中での読書メモ)
第1部 読み終えました。物語的な設問というか、小さな謎が積み重なって続きが気になるので、続けて第2部に取り掛かりたいと思います。
村上春樹さん作品は比喩表現の連なりや重なりの読み解きが必要になりますが、これが結構骨が折れる。まあそれが「良さ」ではあるんですけどね……。でも今作では重要なメタファーは強調され繰り返し登場し、重要でないメタファーは軽く流されたり、あるいは主人公である「私」に否定(例:いや、たぶんそれは私のうがちすぎだろう)されたりしてあって、これまでの作品よりも読みやすい。メタファーに軽重メリハリがつけられたことで、作者にある程度ガイドされていると感じます。「ノルウェイの森」「ねじまき鳥」よりずっと読みやすく改善されているんじゃないかな。物語の読み方の自由度を減じたという言い方もできますが、でもこれは必要な処置だったと考えます。自転車に補助輪をつけるというよりは、真夜中の道に常夜灯を追加するような処置だと感じています。
今作「騎士団長殺し」では36歳で画家の「私」が主人公。プロローグからするに、「騎士団長殺し」のメインのストーリーライン(あるいはテーマ)は「主人公が自分が何であるかを知る」「妻を取り戻す」の2点のように思えます。けれど第1部の時点では、まだメインのラインにたどり着いていません。「騎士団長」がどうメインのストーリーラインに絡んで来るのかも、まだ見えていません(予想はできる)。読み続けます。
< 以下、第1部 読書メモ (個人用です:ネタバレあり注意)>
ーーーーーーーーーーーーー キ リ ト リ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・「私」は自分のことを理解し、自分の人生における歩むべき道を見つけ、納得して歩くことができるのか。
・ 騎士団長、あるいはミミズクは、偽装した祝福(blessing in disguise)か。もしくは、理論的に逆のもの(一見幸福そうにみえて実は忌むべきもの)なのか。
・「私」が15歳のときに亡くした12歳だった妹のコミ。また絵画教室の生徒で、色免渉の娘かも知れない13歳の秋川まりえ。そして妻のユズ。このみっつの因子はメタファーとして近いように思える。この物語、あるいは「私」の物語にとって、どのような役割が割り振られているのか。
・1時46分から鳴り始める鈴の音の正体は? → 解決
・免色邸の開かずの間の謎
・繰り返し登場するスバルフォレスターの男:おまえがどこで何をしていたのかおれにはちゃんとわかっているぞ …「私」にはまだ語られていない謎があるのではないか
・騎士団長は「私」を「諸君」と複数二人称で呼ぶ。何故か。
・古代の鈴を見つけ、免色が入り、家の脇に残されたままになっている「穴」。妹と入った山梨の「風穴」。 …「穴」「暗闇」=「自我と世界が溶け合う現実の世界とは違う世界」は、これまでの村上作品では重要な因子なので、今作でもキーになるはず。
・日本画家の巨匠、雨田具彦(あまだともひこ)はどうして洋画から日本画に転向したのか。ウィーンでどのような体験をし、どのような思いが彼にこれまでの積み重ねを捨てさせたのか。
・「騎士団長殺し」はどのような意味を持つのか。「顔なが」はやはり雨田具彦本人の象徴なのか。
< 抜粋: 作品テーマに関係がありそうな表現 >
・自明ではあるが、その自明性を言語化するのはむずかしい。あなたがおっしゃったように、それは『外圧と内圧によって結果的に生じた接面』として捉えるしかないものなのかもしれません。
・その荒々しいものの群れを統御し鎮め導く、何かしらの中心的要素がそこには必要とされていた。情念を統合するイデアのようなものが。
・うん、絵描きだから、料理の姿かたちをそのまま再現することはできる。でもその中身までは説明できない。
・真実とはすなはち表象のことであり、表象とはすなはち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。(中略)人がそれ以外の方法を用いて理解の路を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮かべんとするようなものだ。
・ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない。
※ 2/26追記
この騎士団長殺しの第2部には【擬人化されたメタファー】が出てきますが、本稿でいうメタファーは通常の意味で用いています。つまり、暗喩ないし象徴の意味です。ご承知ください。