この世はしょせん夢芝居

考えたことをエッセイに書いてます。本の紹介もしています。目指しているのは「ゆるふわなチラ裏」。

人生をゲーム化すること(某有名RPGみたいに)

人生をゲーム化して楽しもう! ということが書いてる本を読んだ。小学生の頃に熱中した某有名ゲームの名前がその本に冠されていたため、懐かしさについつい手が伸びたという次第だ。本を読む前からしてやられた感を思わなくもなかったが、バリバリの資本主義のステマだかブクマだかが飛び交う現代で、そんなことを気にしたら負けだと思って、自分の本当の気持ちを誤魔化しながら本を開いた。

 

結果から言うとそれほど某有名ゲームタイトルとは関係なかったが、なかなかに響く言葉が書いてあって、読んで良かったと思える本だった。その本の内容を至極乱暴に要約してしまえば、ゲームとは、目的のために、独自のルールに沿って、敵との闘いを楽しむもの。この定義を人生にぶち込んで、応用することで、人生もゲームのように楽しめるというものだ。

 

確かに生きていると色々な困難にぶつかる。だがその時に、運が悪いとただ嘆くだけか、困難を乗り越えることを楽しめるかで、次の展開が随分と違うものになるだろう。どうすればうまくいくか、選択肢を考え、検討し、そして試行錯誤することで困難すらゲームのように楽しめるというわけだ。

 

困難はどうやったってやってくる。ならば、楽しんだ者勝ちだと言えなくもない。

 

ところでわたしは荘子という古典が好きなのだが、その古典に「荘周、夢に胡蝶になる」という言葉がある。荘周は人命。胡蝶は、まあ蝶だ。荘周さんという人が昼寝をして、蝶になった夢を見た。ひらひらと空を飛んで、随分と楽しい思いをした。そして目が覚めた。荘周という人間だった。けれど、夢の蝶が本質なのか、今の荘周が本質なのか、誰もわからないではないか。……という話だ。

 

目や耳やという感覚器官を通してきた情報を、脳が処理して認識されて、個人的な世界は定義されている。であれば、夢も現実も、主観的には変わりがない。世間的には現実が優位だとされているけれど、実はどちらが本質なのかを決定する決め手は存在しないと思う。命をどう使うかはその個人に決定権があって、夢と現実、どちらを重視するかなんて、心の有り様次第なのだと思う。

 

自分以外の客体はなかなか変えられないけれど、主観的な認識方法は心の有り様でいつでもどんな風にでも変えられる。現実をゲームのように捉える認識方法が有用であれば、それは思いっきり使い倒せばいい。この認識は、どちらかと言えば享楽的で、にもかかわらずストレスフルな現代人に適している。「人生は楽しむべきものだ」と考えている人にはさらにぴったり。オススメです。