読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

戦略的高地について めも

 

今日は「戦略的高地」について書きます。

特殊用語だしニーズはあんまり無いと思うけれど…こういうのが好きなので。

他にも好きな方がいるかも知れないし。

意外に奥深い概念なんですよ。

 

 

さて、早速、孫子の引用から。

 

孫子 行軍篇 40

軍は高きを好みて下(ひく)きを悪(にく)み ・・・

… 軍を布陣するときは、高いところが好ましく、低いところは避ける

 孫子 行軍篇 1

隆(たか)きにおいては登ることなかれ

… (山岳戦においては)、高いところの敵を攻撃してはならない

 

古代の兵法書で古典でもある、「孫子」に上のように記されている。要は、高いところにいたほうが有利だ、ということだ。この「有利な高いところ」を「戦略的高地」と現代では呼んでいる。

 

古代の戦争においては、低いところよりも高いところの方が有利だった。

これは言わなくてもなんとなく想像できると思うが、これはもう上から攻撃するほうが断然有利だ。古代の戦争では刀剣、槍、弓矢、騎馬が主力武器。それらの武器を持って兵士同士が肉弾戦を演じるのだ。

 

上から下に攻撃するとき、矢は上からのほうが遠く届くし、敵の姿が見えやすいので命中率も良い。上から巨石や巨木を落として、攻撃に変化をつけることもできる。また、兵士を突撃させる場合も、下からの攻撃だと、坂を登らなければいけないので、どうしても勢いがつかない。逆に降りるほうは勢いをつけられるので、上のほうが有利だ。

 

そして下の敵の動きは、上からは丸見えになる。下の敵の陣形に合わせて、上側の軍は、下側の敵の弱点をつくように攻撃してやればいい。それは将官レベルだけでなく、個々の兵士にもまるわかりだっただろう。

 

このように、下から上へ攻撃する場合を比べると、上から下に攻撃するほうが、より有利に効率的に戦うことができる。

 

なので、古代の戦争においても、ポジション取りが大事だったというわけだ。

 

 

 戦略的高地・現代

 

軍事的に「高いところは低いところより有利」という概念は、武器がピストルやミサイルへと様変わりした現代でも、実は通用する。

 

わかりやすいのは飛行機の発展だ。第一次大戦で実戦投入された飛行機は、空から爆弾を落とすことで、地上戦の勝敗を分けた。第二次大戦では、飛行機が進化し、前時代の飛行機のさらに高い空(超高度)を飛べる飛行機が開発された。飛行機同士の戦いでも、高いところにいる飛行機のほうが有利だった。

 

当時、エンジンでプロペラを回し本体を推進させるタイプの飛行機だったわけだが、上空に行けばいくほど、空気・酸素が薄くなる。空気が薄くなることでプロペラの推進力がさがり、酸素が減ることでエンジン内の燃焼効率が悪くなって、エンジンの回転が落ちる。この二重苦で飛行機が飛べる高度が決まっていた。飛行機がこの技術的課題を少しずつ解決していくのにだいたい30年ほどを要したわけだ。(なお、ライト兄弟が空を飛んだのが1903年リンドバーグの大西洋無着陸飛行が1927年、零戦の制式採用が1940年)

 

空を取られると、地上戦はほとんど意味をなさない。なので制空権という概念が成立し、制空権の有無が戦争の勝敗をわけるようになった。

 

山から空へとあがった現戦略的高地は、20世紀後半から21世紀にかけて、さらに高地にあがった。次の舞台は宇宙になった。具体的には、人工衛星軌道だ。1991年の湾岸戦争では、米国の衛生監視システムが強力に機能した。(参考:米中もし戦わば ピーター・ナヴァロ著)

 

21世紀の今、もはや基本インフラになったインターネットやGPSを支える基幹システムは、さらに高度に発達した人工衛星ネットワークだ。

 

もしこの人工衛星ネットワークよりもより高い戦略的高地を押さえることができた国は、次の時代の軍事的優位を持つことができるだろう。

 

次世代の戦略的高地は、宇宙ステーションや月基地になる。米国・中国・露国が先を争って宇宙開発を進めているのは、人類のロマンと栄光を追い求めているだけでなく、次世代の軍事戦略を見越してのことなのだということは、知っておいて損はない。

 

 

ところで、戦略的高地・概念

 

ただの事実だけではもったいないので、日常生活でも応用するために、戦略的高地の価値を、抽象度をあげて概念として考えてみた。

 

まず、古代の戦争を例にして考え、それから抽象化しよう。

 

高いところから低いところに攻撃するとき、「矢が遠く届いたり、巨石で攻撃できる」という有利があった。ということは、→攻撃範囲・手法が広がる→戦略的自由を得られる

ということである。

 

もうひとつ、「上から見ると、下の敵の動きが丸見え」という有利もあった。これは、→有利な情報がたくさん集まる→情報で優位に立てる

ということである。

 

つまり、戦略的高地とは、そのポジションを取ることで、

 1.戦略的自由を得られる

 2.情報で優位に立てる

 のメリットがある場所だといえる。

 

なので、物理的に高い場所に限らず、組織の上層部、プロジェクトの上流も抽象的に言えば戦略的高地と言える。

 

上司が部下に意見を通しやすかったり、プロジェクトの企画部門からスタッフ部へ指示ができるのに、この逆がやりにくいのは、ポジション取りによる効果だと言えるかも知れない。

 

もっと考えを進めて、身も蓋もない言い方をしてしまえば、主導権を取りやすい場所が戦略的高地だと言える。

 

普段の生活を考えて、自分は戦略的高地にいるかどうかを考えてみて、自分の置かれている環境の有利不利を一度分析してみるのも楽しいかも知れない。

 

 

 

 

 

 

【希望の国のエクソダス】

 この国にはなんでもあります。本当にいろいろなものがある。ただ、希望だけがない。

希望の国エクソダス』より。

 

 

 

 

 

希望の国エクソダス 村上龍

2002年、失業率は7%を超え、円が150円まで下落した日本経済を背景に、パキスタンで地雷処理に従事する16歳の少年「ナマムギ」の存在を引き金にして、日本の中学生80万人がいっせいに不登校を始める。彼らのネットワーク「ASUNARO」は、ベルギーのニュース配信会社と組んで巨額の資金を手にし、国際金融資本と闘い、やがて北海道で地域通貨を発行するまでに成長していく。

 

村上龍の小説、『希望の国エクソダス』。2002年以降の現代日本が舞台の小説だが、実際は2000年に初版が出ている。だからこの本は近未来小説として世に出ているのだが、この本が未来予測の本でもあると気がついた。

 

未来予測の本と言えば、フランス大統領の助言役(当時)であるジャック・アタリの『21世紀の歴史――未来の人類から見た世界』が有名だ。もちろんノストラダムスのような科学的な根拠のない予言ではなく、世界史を俯瞰することで歴史の法則性を見出し、そこに各国の政治・軍事・技術の現状を当てはめることで、数十年先の未来を予見している。相当勉強になるのでおすすめだ。

 

『21世紀の歴史』のように膨大な知識に裏打ちされた分析本が未来予測の本としては普通の形態なのだが、『希望の国エクソダス』は小説、フィクションである。それが2018年の現代から見ても、正しいことを言っているので驚く。

 

この小説は、2000年頃の閉塞的な日本の大人たちへ中学生から批判を浴びせる本だ。このあたりは時代だなと思うのだが、同時に、未来予測の本でもある。特に最後の50ページに目を通してもらえると面白いことがわかるだろう。2018年の今、予言されているものが現実世界に登場していることがわかる。

 

箇条書きであげれば、インターネットコミュニティのマネタイズ。ゆるやかなコニュニティの創出。仮想通貨決済。資本を使った自治体の乗っ取り。エネルギーを押さえる。企業誘致。集団移住。ひとつの経済圏の創出。新たな文化圏の創出。国家という構造そのものへのアンチテーゼ、疑問。私設タスクフォース。

 

村上龍はよほど丁寧に取材をしてこの小説を書き上げたのだろう。ひとつの未来のかたちを見事に予見している。上に書いたものでも、インターネットコミュニティのマネタイズや、ビットコインなど仮想通貨決済は、既に実現している。

 

重要なことは、この小説に書いてあることで実現していないことの一部は、現実になるかも知れないということだ。人は想像した範囲でしか動くことができないが、逆に言えば想像したことは現実になる可能性を秘めているということでもある。

 

未来に何が起こり得るかを知っているのと知らないのとでは、日頃の情報に対するアンテナの張り方が違ってくる。今後起こるかも知れないことの知識がないために、ひょっとしたら現在の超重要な情報を取り逃しているかも知れない。せめて『希望の国エクソダス』に目を通しておくべき。余裕がある人は『21世紀の歴史』も見ておくといいかも。

 

 

 

 

 

先行き何が起こるかわからないというときは、実はチャンスだ。

 

先行き何が起こるかわからないというときは、実はチャンスだ。

そう考える。

 

何故そう言えるのか。普通は、何が起こるかわからないときはリスクじゃないのか。

 

けれど、もう一度こんな角度で考え直してみてほしい。

 

先行き何が起こるかわかるということは、現在と同じ繰り返しが続くという意味ではないだろうか。

 

朝、満員電車に揺られて会社に行き、メールチェック、得意先と打ち合わせをし、お昼を食べ、午後からまた打ち合わせや資料作りをして、残業して帰る。眠って起きるとまた朝で、昨日と同じ日が始まる……。同じ毎日を過ごすうちに月が変わり年が変わり、それなりに昇進して、しかし毎日は変わらない。

 

先が読めるというのは、要は安定しているということだ。

けれど、その代わりに、飛躍が無い。

 

安定が一番、という人もいるだろう。でもそういう人生を求めていない人種もいる。人生に刺激を求めたい人、何かを為したい種類の人には、きっとものたりない。80年の人生が終わったときに、きっと後悔している。そういう人もいる。安定が一番という人からみたら、人生設計が出来ていない愚か者に映るだろう。だが動物的存在としての人間の型が違うのだ。あえて言うなら、安定を求める人は農耕型で、刺激を求める人は狩猟型なのだろう。方向性は確かに違うが、そこには優劣もない。

 

決まった未来を変えたいのなら、一度混沌に身を投じなければならない。何が起こるかわからない状態の中でこそ、違う未来線の自分自身に出会うことができる。

 

成功者たちの多くは、どんなに安定しているように見えても、探っていくと必ず、先が見えない状況を体験している。やむなくそういう状況に陥った人もいるが、自分からあえて安定した環境を飛び出して、不安定な状況を自ら作り出して、さらなる大きな成功への土台にしてしまう人もいる。

 

 

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司馬遼太郎の「世に棲む日日」という時代小説がある。

明治維新のために駆け回った長州藩の特殊性に光をあてた小説で、前半が吉田松陰。後半が高杉晋作が主人公になっている。面白い小説なので一度読んでみて欲しい。

 

後半の主人公のひとり、高杉晋作が藩より選ばれて上海視察したときの話。

清帝国アヘン戦争などの対外戦争に敗れ、上海をイギリスやフランスなどの租借地として差し出し占領下同然になっているさまをみた高杉晋作。西洋風の華美な建築、書物、知識、そして江戸を驚かせた黒船同等の巨艦が港にたくさんつながれているのをみて西洋の実力に感銘を受けるその一方で、日本も見た。視察には雄藩の俊英たちも選ばれており、相互に刺激を受ける一方で、旗本たちは無気力そのもので、珍しい光景にも貴重な情報にも興味を示さなかった。さらに、西洋人に侮りを受ける清国人を見て、高杉晋作はついに倒幕の大戦略を思いつく。

 

外国の侮りを受けない日本を作るために、現政権である江戸幕府を倒さなければならない。しかし江戸幕府の統治は盤石であり、まともにやっても倒れないので、高杉は策を思い巡らさざるを得なかった。

 

そして彼が思いついたことには、まず攘夷を唱え列強と問題を起こし、それによってまず日本を内戦状態に引きずり込む。その内戦状態によって出て来る民衆の反発、元気を利用して江戸幕府を倒し、新たな政府を樹立して人材を一新し、しかるのちに開国して日本の実力をつける。

 

こうして見ると実に危うい大戦略だが、不思議なことに、日本の歴史はほぼ彼の構想通りに進んだ。もちろん高杉晋作が受け持ったのはその歴史の一部だけだったが、それでもこのような大戦略を思いつく大局眼と胆力はえらい。善悪はともかく、英雄の業だろう。

 

 

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なぜ高杉晋作の話をとつぜん持ち出したかと言えば、大きな戦略目標を達成しようとしたときに、あえて先の見えない状況を作りだし、そこに活路を見出す方策は有効だということが言いたかった。

 

高杉の例で言えば、攘夷を煽って問題を起こさせる、というのが先の見えない状況にあたる。

 

だが、リスクが高いやり方だ。失敗する可能性は低くないし、少なくとも安全とは言えない。

 

けれどもまっとうな手段では届かない目標を目指していたり、まったく動きそうにもない状況をどうしても事態を打開したいときには、そういう道もあるということだ。

 

現在の社会人に置き換えて、個人レベルで言えば、会社を辞めて、働かざるを得ない状況を作って起業するとか、そういう話になる。

 

大戦略を持った人が覚悟をもってやることであれば、敬いこそすれ、笑うべきことじゃない。

 

皆が自分の夢に向かって進めば素敵だ。どんどん頑張って欲しい。そのほうが日本は今よりもずっと面白く、住みやすい国になるような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

そのときの思考を記録し保存する

前々の記事から、ブログの書き方をがっつりと変えている。

 

「もっと書きたいことを書いていきたい」と思い立った結果がこれである。自分ではいろいろ変えたつもりだけど、ぱっと見でわかるのは、「ですます調」だった文体を「である調」に変えたことだろうか。こっちの方が書きやすいから変えた。

 

より本質的な変更点は、このブログの役割を変えたことだ。いや、これより前のブログの役割が決まっていたとは言い難いので、ようやく役割を決めたという言い方のほうが正確なのだろう。それで、このブログの役割だが、「そのときの思考を記録し保存する」という役割を与えることにした。

 

思考を記録することを優先するためか、文章に粗が増えた感じがするが、おいおい回を重ねるうちに改善していく予定。(そう期待したい)

 

今は自己流の方法で量を重ねて経験値を積むフェーズのような気がしているので、しばらくはこのスタイルでいこうと思う。でもある日突然、文体やら書き方やらが変わっていたら、まあいろいろと察して欲しい。

 

 

 

コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない

 

「コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない」

 

これは幻冬舎編集者の箕輪氏の言葉だ。Twitterから引用。

 

文章を書くようになって、コンテンツとは一体なんだろうと考えることが多くなった。

辞書的には、コンテンツとは情報の中身という意味だ。もう少し付け加えると、見たり聞いたりして面白いもの、リピーターを集めるものが”良質な”コンテンツだと言われる。

 

じゃあ具体的にどんなものが良いコンテンツとなのか? そんな疑問が作り手にはつきまとう。

 

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冒頭の「コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない」はこの疑問を解くヒントになりうる。

 

欠落は足りないものへの「執着」を生み、過剰は興味の対象への「偏愛」を産む。

 

執着も偏愛も「好きなこと」の在り方のひとつだ。そして、ただ好きなだけなのではなく、その好きが「過剰」なのだ。この過剰な好きが、「尖った個性」を生む。尖った個性、ここに至れば、もう尖った個性そのものがコンテンツだ。平凡には埋没しない個性を面白がる人は多いだろう。

 

良くも悪くも話題になり、繰り返し閲覧され、認知が広まり、最終的に人の感情が動く。そこまで行けば感情が動くで「感動」になる。

 

作り手としてのレベルが高くなれば、どんな素材でも上手に料理して良質なコンテンツを作れるのだろうけれど。まずは、自分が好きなもの、こだわりのあるものが、コンテンツの始まりなのだろう。

 

 

 

 

 

「事事無碍」。AIが見る世界

 

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AIが着実に進歩している。将棋AIポナンザが名人を破り、碁AI AlphaGOが世界王者イ・セドルに完勝した2016年。両AIは将棋と碁の王者の座に君臨し続けていると思いきや、実はすでに引退してしまっている。次世代の将棋AI・碁AIがあっさりと伝説になったソフトをなぎ倒してしまったからだ。

 

将棋AIなどのAI全体の進歩が、ディープラーニングによるものだということは、広く知られている。何千何万、それ以上のとにかくたくさんの場面を記憶させて、AIを鍛える手法だ。

 

だが意外なことだが、ディープラーニングで鍛えたAIが、どのようなロジックで強くなっているかの因果関係は、既に開発者にもわからないという。AIなので覚えたものを忘れないことが強さの源泉だと勘違いしそうだが、実はそうではない。たとえば強くなるAIには、ランダムに覚えたパターンを忘れさせるプログラムを入れると、勝率があがるのだという。このレベルまで来ると、どうして勝率があがるのか、開発者にとってもAIの思考はブラックボックス化してしまうのだそうだ。不思議で、とても興味深い。人間の抽象化能力に似ているような気もする。

 

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人は「理論」と「ストーリー」によって物事を理解する。

物事に意味と関係性を与え、その中で価値評価をして「理解」という領域に至って、「わかった」という感情を得る。

たとえば、「AはBに似ているから、Bを引き寄せた。そしてその結果、AとBがくっつき、Cになった」のようなものだ。似ているもの同士は引きつけられ、近づくとくっつき、くっつくと新しいものが生まれる、というロジックは人間にも理解しやすい。ロジック同士のつながりも滑かだ。

 

だがディープラーニングで育てたAIは、機械は、そうではないのだという。機械は理論ではなく、AというインプットがあったらA’というアウトプットを返すだけなのだ。そのアウトプットは、過去の事例のから逆算して求められたもので、理論ではない。たとえば将棋の場合だと、記憶させた何千何万通りの棋譜から、現在の盤面と似た棋譜を持ってきて、そこからもっとも勝率の良い手を探して打つのである。「どうしてかはわからないけど、経験的にこうなる」という帰納法の積み重ねだと言えるのではないだろうか。

 

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筑波大学の研究者でメディアアーティストの落合陽一さんが、CINRA.NETで面白いことを話していた。

(落合氏)しかしこれからの時代、特徴量を人がコーディングしない機械学習、例えばディープラーニングなどによる解決の過程は人間には理解できず、抽象論の前に解決がやってきます。それは、あたかも華厳宗で語られている「理事無碍」と「事事無碍」のようなものでしょう。

難解!

さすがに記者が補足をいれてくれています。ありがとうございます。

 <記者補足> 理事無碍(りじむげ)とは「理性と現象とが無碍(邪魔するものがない)なる関係」であり、事事無碍(じじむげ)とは「現象の個物と個物とが融通する」(『華厳の思想』講談社学術文庫・鎌田茂雄著)こと。これまでは、人間の「理」によって「物」が生み出されてきたが、ディープラーニングを前提とした世界では、常に結果である「物」が先立ち、人間の「理」ではなく「物」と「物」との関係性によって世界が進んでいく……。

 

つまり、理と事がつながる関係は、人間の世界。

事と事だけでつながれる世界は、ディープラーニングによって育てられたAIの世界。

 

将棋に例えれば、理屈もなく、大量の事例を根拠に、相手の一指しをさばく解決策を提供する将棋AIは、「事事無碍」の世界にいると言える。たいして、過去の定石、理屈から解決策を導く人間は、「理事無碍」の世界にいると言える。

 

どちらの方法が優れているという問題ではなく、人間とAIは違う世界にいるのだということが言いたい。人間の延長という位置付けでAIを捉えがちだが、AIはもうすでに人間とは違う世界に居て、違うアプローチで物事を解決しているということは知っておいても良いと思う。というか、知っておくべきだ。

人間にとってAIはすでに全く異なった知能。だからその思考の道筋は人間からはまったく理解できないし、事象の相関関係は示せても、因果関係は示せない。原因と結果は逆かも知れないのだ。AIはとても賢いけれども、盲信する必要はないし、正しくない使い方もあるということだ。

 

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「追いつかれたと思ったら、その次の瞬間には追い抜かれている」

 

ポナンザの開発者の山本氏がその著書の中で書いていた言葉だ。

 

AIの進歩は累乗的速度で進んでいくので、先に走っている人間が追いつかれたと思ったときには既に遅くて、次の1秒後にはAIは遥か先に進んでしまっている。そして、両者の関係では、一度追い抜かれるともう追いつけない。

 

油圧機械ーーパスカルの原理で動く、油圧を使った重機と呼ばれるパワーショベルのような機械が出てきたとき、肉体労働の世界は大いに効率化された。

馬力という言葉がまだ残っているが、重い荷物を持ち上げたり、大きな岩を砕いたり運んだりするには、馬のような大きな動物に頼るしかなかった。あるいは舟の浮力を使うために、街に運河を縱橫に掘り、それを利用して肉体労働のコストを節約したりした。

だが今は油圧機械や自動車があり、重い荷物を運ぶのに馬や舟を使おうと発想する人はいない。ムキムキに鍛えた筋骨隆々人ですら、機械と張り合おうと考える人はいない。人が出せる力と機械が出せる力は10倍やそこらじゃ効かないからだ。そして肉体労働の価値は下落した。機械は強靭な肉体の代わりをすることができ、しかも機械の方が効率が良いからだ。

 

何が言いたいかと言えば、この先の20年、あるいはもっと短い期間に、知的労働においても肉体労働と同じことが起きるだろうということだ。もちろん人間にとってかわるのはAI。資本主義上の帰結として、人間よりも安く効率的なAIは、多くの場面で採用されるようになるだろう。そしてAIは世界を塗り替える。

 

SF物語だと思っていた世界が、自分が生きている時間軸のなかで実現する。そう考えると自分は幸運な時代に生まれて来たなあと思える。早くたくさんの未来が見たい。

 

 

 

 

 

「参考文献」

 

www.cinra.net

wired.jp

 

人口知能はどのようにして「名人」を越えたのか?

山本一成

 

超AI時代の生存戦略

落合陽一 

 

伝統は変えられないものではなく、アップデートできるもの

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お花見に行ったら、桜だけでなく菜の花も満開でした。ピンクと黄色で視界がものすごく華やかでとても綺麗でした。アルコールのないお花見だったので、それも良かったかも知れませんね。今の季節にしか見られないものを見ると、なんだか得したなと思えます。

それとともに、ちょっと変な感覚かも知れませんが、「ちゃんとした日本人」をやっているなという気になります。四季のうつろいとともに、諸行無常・生々流転の「もののあはれの美しさ」を感じるのが日本人の感性。古典文学が栄えた平安の時代から1000年経っていますが、DNAレベルでそういう感性が根付いているのでしょうね。

 

伝統芸能である歌舞伎の挑戦し続ける姿勢

 

日本の伝統芸能のひとつである歌舞伎の起源は、江戸時代の始まりのころ、おくにという女性が始めたかぶき踊りにあると言われます。しかしこのように女性が起源となった歌舞伎ですが、開始から20年ほど経ったのち、風紀の乱れを理由に幕府から禁令が出され、女性が歌舞伎を演じることができなくなりました。そこで、これまでの女性役を男性が演じ、廃業の危機を免れた、という説があります。女性がいなければ男性がやるしかない、というものですが、ものすごく柔軟な対応です。

その伝統の初期から柔軟だった歌舞伎は、明治の西洋化や終戦後のGHQの指導など、時代の変化を受けながらも、演目や演出に変化を加えつつ、庶民の娯楽としてあり続けて現代に至っています。

現代21世紀の歌舞伎は昔の演目を興行するだけでなく、ワンピースのような人気漫画やニコニコ動画とコラボしたり、さらに液晶大画面やプロジェクションマッピングのような新しい技術による演出も取り入れて、ショービジネスとして明らかに進化しています。ただ伝統芸能の座にあぐらをかくのではなく、常に新しいものを取り入れ、挑戦し続ける姿勢は素直にすごいと思います。

大衆娯楽としてあり続けるための努力、誇り、不屈のプロ魂を感じます。なんというか、歌舞伎は、プライドを正しいところ、あるべき場所に、置けていると感じます。

 

また話は飛びますが、夏目漱石芥川龍之介のような文豪と呼ばれる人たちは、明治の当時は大衆小説家に過ぎませんでした。伝統から大きく外れた新しいスタイルの表現を持ち込み、それが大衆に受け入れられた結果、後世から文豪としての名誉と権威を与えられています。

これは、彼等が体面にこだわらず、大衆に受けるものを提供したからこそ、後世からの高い評価があると思います。当時、もし伝統にこだわり、新時代の価値観に合わそうとせずに、古典的な文筆にしがみついていたら、きっと彼等は名を残すことはなかったでしょう。

 

 

伝統はアップデートできるもの

 

ところで、土俵上での挨拶のときに倒れた男性を助けるために、女性が土俵にあがり、救命活動を施している最中に、日本相撲協会の協会員が、土俵から下りるよう指示したという事件がありました。

女性が土俵から降りた後に塩を大量にまいたとか、男性の救命士をそもそも用意していないとか、危機管理も出来ていないのに、実務よりも女性差別を優先していて、非常に不愉快な話がいろいろありますが、わたしの考える一番重要な論点は次のひとつです。

 

最重要論点:

・女性だということを理由に、土俵上での救命活動を中断させようとした

 

伝統は一言で言えば文化、歴史の積み重ねによるものですので、軽く扱う気はありませんが、今の21世紀の価値観において、人命よりも尊いものはそうありません。

人命を天秤にかけるときは、その先により多くの人命が失われる危険があるときだけだとわたしは考えます。

伝統は絶対不可侵のものではありません。伝統のルールを深掘りすれば、そのルールはなにか、価値的なものを守るために設定されたはずです。ですが、時代が移り変わってその守るべきもの自体が無くなって、ルールだけが残っていることがあります。守るべきものがないルールは、変えたり廃してしまっても問題ないはずです。逆に形骸化したルールを残しておくことは、害が大きいことが多い。

伝統は時代を超えるものですので、このように不要になったルールを廃止したり、逆に新たに設定したりという手入れが必要です。今風の言葉で言えば、”伝統のアップデート”とでも言いましょうか。

先程の例で言えば、人命よりも大切なものは無いわけですから、救助活動する女性は例外としたり、男性の救命士を常設したり、そもそも土俵には力士と行事しか載せないようにするなどの対策があります。

いくらでも対策があり、ルールは柔軟な運用もできます。そのための協会です。

 

必要なアップデートが出来ない伝統は、ただの思考停止にしか過ぎません。

思考停止になれば、時代に合わないということですから、大衆の支持を失うことになるでしょう。そうなれば、その伝統まるごと、つまり相撲協会と相撲というスポーツがまるごと寿命を迎えたととらえられます。そうなれば、自然淘汰されていくのを見守るのが正しい姿なのでしょうね。

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。