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ビジョナリーな異能 堺屋太一さんを悼む

 

堺屋太一さんの訃報を今日知った。

 

2月8日に多臓器不全で亡くなられた。83歳。

 

惜しい人をなくした。とても残念だ。

 

www3.nhk.or.jp

 

 

経済産業省官僚。小説家デビューして退官。

 

団塊の世代」という言葉の生みの親として有名。しかも同名の小説「団塊の世代」で、ボリューム世代の高齢化が<民族の秋>を招くことを予言した。

小渕内閣のときに民間閣僚として経済企画庁長官を務めた。2008年の大阪府知事選挙で橋下徹氏のブレーン役として参陣。以降も(初期の)維新の会のブレーン役を務めた。

万博などのイベントごとに強く、愛知万博、上海万博、そして2025年の大阪万博誘致にも関わったのだそうだ。

 

本当にすごい人だと思っていたので、訃報に接し残念でならない。 とは言いながらも世間ではそこまで知られている人ではないと思うので、かの先生の凄さをここで語って置きたいと思う。

 

「知価革命」の凄み

 

私が堺屋さんの書いた知価革命という本を読んだのは、2002年頃だったと思う。古本屋で格安で手に入れた本で、これが堺屋さんの著作とのファーストコンタクトだった。本の要旨は、「モノがモノの価値(機能など)で評価される時代は終わり、モノに上乗せされるブランドや、情報それ自体が価値を持つ」というものだったと記憶している。

当時、この本はすごい! と思ったものだが、もっとすごいのはその本が1985年に出版されたものだということ。世の中の動向の予測精度に驚いた。

 

インターネット時代到来。ネットワーク上で情報が大量にやり取りされ、情報そのものが価値として認識される。

フェアトレードのように、ただのコーヒーではなく、途上国の働き手に適正な賃金を支払って収穫したポリコレなコーヒーであるという「ストーリー(情報)」が付き、300円のコーヒーが500円で売れる。

ブランドという情報がつくことで、服の値段が10倍になる。

プラスチックで出来た食器よりも、木製のもののほうがエコだという情報が付加され、高い値がつく。

仮想通貨がきっかけでお金の価値がゆらぎ、価値とは信用(=情報)だ、という説が出始める。

 

これらは21世紀の世相の一部だが、「知価革命」予言されていたことが、少しずつかたちを変えながら出てきているといえると思う。

堺屋さんの著作は多数あり、どの本も先見の明と歴史を俯瞰する教養にあふれているが、この「知価革命」が、堺屋先生の先見の明を鋭く表していると思っている。

 

 

名補佐役を描いた:小説「豊臣秀長

 

堺屋さんの著作は「秀吉(文庫・全4巻)」が有名だが、それよりも白眉だと思う小説、秀吉の弟で補佐役として影のようによりそった豊臣秀長を描いた小説「豊臣秀長(文庫・上下巻)」だ。

戦国時代に秀吉が行った偉業を、どうやって実務化していったのか? という疑問と解答が、小説の中に盛り込まれている。堺屋さん自身が元官僚であり、国事や国家レベルのイベントに関わった経験があるからこその疑問、問いの立て方だと思う。そしてこの問いが、この小説を、決定的に、特異に、また面白くしている。

史書を読みこんでいるだけの学者では、歴史的な偉業ーー墨俣一夜城・高松水攻め・兵糧攻めなどーーをどのように実務に落とし込んだのだろうだとか、現場ではこういう問題が起こるはずだけどそれをどう解決したのだろうとか、そういう疑問自体が出てこない。

一般に歴史家の先生はなにを(What)を重視しますが、こういう歴史書は面白くない。なぜなら「なにを」がわかっても、現代に応用できないから。歴史はアナロジーの学問。だから、なぜ?(Why) どうやって?(How)という視点がなければ、歴史を学ぶ意味がない。

雄図の裏には、地味だ絶対に必要な作業がある。それをこなす人物がいなければ偉業は達成できない。そういう基本的な事実認識を強く与えてくれる良書だ。

弟・秀長を失った途端、残された秀吉は無謀な朝鮮出兵を強行し、失敗。豊臣家の家運を衰退させてしまうという終末は、歴史の影に埋もれがちな、有能な補佐役の重要性を教えてくれる。

 

ビジョナリーな人物像

 

堺屋氏は、戦後の経済発展を支えた護送船団方式が20世紀末では通用しないことを主張。1960年に経産省に入省したことを考えると、自分がまさにやっていた仕事を否定するような、当時はそうとうに鋭い匕首のような主張だったのだろう。

その他、首都機能移転道州制などの地方分権、小さな政府、規制緩和、人口減に対する対策を訴えるなど、情報化社会、高齢社会、少子化社会を見据え、様々な提言をされた。

また景気刺激策に、万博を積極的に使う手法も採用していた。2020年の東京オリンピック以降の日本の景気動向が読めないなかで、堺屋さんが尽力した2025年に予定される大阪万博はひとつの道標になりうるものだと思う。

 

日本の将来を見据えたビジョンを描ける人は本当に稀な、異能の存在だ。その人を失ったことは、本当に残念でならない。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

business.nikkei.com

(2/16) 日経ビジネスにすごく良い記事が載っていたのでぜひこちらも。

「大いなる凡庸」を脱し、ひとりひとりが自分自身の幸せのかたちを追える社会を。