コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない
「コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない」
これは幻冬舎編集者の箕輪氏の言葉だ。Twitterから引用。
文章を書くようになって、コンテンツとは一体なんだろうと考えることが多くなった。
辞書的には、コンテンツとは情報の中身という意味だ。もう少し付け加えると、見たり聞いたりして面白いもの、リピーターを集めるものが”良質な”コンテンツだと言われる。
じゃあ具体的にどんなものが良いコンテンツとなのか? そんな疑問が作り手にはつきまとう。
冒頭の「コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない」はこの疑問を解くヒントになりうる。
欠落は足りないものへの「執着」を生み、過剰は興味の対象への「偏愛」を産む。
執着も偏愛も「好きなこと」の在り方のひとつだ。そして、ただ好きなだけなのではなく、その好きが「過剰」なのだ。この過剰な好きが、「尖った個性」を生む。尖った個性、ここに至れば、もう尖った個性そのものがコンテンツだ。平凡には埋没しない個性を面白がる人は多いだろう。
良くも悪くも話題になり、繰り返し閲覧され、認知が広まり、最終的に人の感情が動く。そこまで行けば感情が動くで「感動」になる。
作り手としてのレベルが高くなれば、どんな素材でも上手に料理して良質なコンテンツを作れるのだろうけれど。まずは、自分が好きなもの、こだわりのあるものが、コンテンツの始まりなのだろう。