この世はしょせん夢芝居

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

先行き何が起こるかわからないというときは、実はチャンスだ。

 

先行き何が起こるかわからないというときは、実はチャンスだ。

そう考える。

 

何故そう言えるのか。普通は、何が起こるかわからないときはリスクじゃないのか。

 

けれど、もう一度こんな角度で考え直してみてほしい。

 

先行き何が起こるかわかるということは、現在と同じ繰り返しが続くという意味ではないだろうか。

 

朝、満員電車に揺られて会社に行き、メールチェック、得意先と打ち合わせをし、お昼を食べ、午後からまた打ち合わせや資料作りをして、残業して帰る。眠って起きるとまた朝で、昨日と同じ日が始まる……。同じ毎日を過ごすうちに月が変わり年が変わり、それなりに昇進して、しかし毎日は変わらない。

 

先が読めるというのは、要は安定しているということだ。

けれど、その代わりに、飛躍が無い。

 

安定が一番、という人もいるだろう。でもそういう人生を求めていない人種もいる。人生に刺激を求めたい人、何かを為したい種類の人には、きっとものたりない。80年の人生が終わったときに、きっと後悔している。そういう人もいる。安定が一番という人からみたら、人生設計が出来ていない愚か者に映るだろう。だが動物的存在としての人間の型が違うのだ。あえて言うなら、安定を求める人は農耕型で、刺激を求める人は狩猟型なのだろう。方向性は確かに違うが、そこには優劣もない。

 

決まった未来を変えたいのなら、一度混沌に身を投じなければならない。何が起こるかわからない状態の中でこそ、違う未来線の自分自身に出会うことができる。

 

成功者たちの多くは、どんなに安定しているように見えても、探っていくと必ず、先が見えない状況を体験している。やむなくそういう状況に陥った人もいるが、自分からあえて安定した環境を飛び出して、不安定な状況を自ら作り出して、さらなる大きな成功への土台にしてしまう人もいる。

 

 

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司馬遼太郎の「世に棲む日日」という時代小説がある。

明治維新のために駆け回った長州藩の特殊性に光をあてた小説で、前半が吉田松陰。後半が高杉晋作が主人公になっている。面白い小説なので一度読んでみて欲しい。

 

後半の主人公のひとり、高杉晋作が藩より選ばれて上海視察したときの話。

清帝国アヘン戦争などの対外戦争に敗れ、上海をイギリスやフランスなどの租借地として差し出し占領下同然になっているさまをみた高杉晋作。西洋風の華美な建築、書物、知識、そして江戸を驚かせた黒船同等の巨艦が港にたくさんつながれているのをみて西洋の実力に感銘を受けるその一方で、日本も見た。視察には雄藩の俊英たちも選ばれており、相互に刺激を受ける一方で、旗本たちは無気力そのもので、珍しい光景にも貴重な情報にも興味を示さなかった。さらに、西洋人に侮りを受ける清国人を見て、高杉晋作はついに倒幕の大戦略を思いつく。

 

外国の侮りを受けない日本を作るために、現政権である江戸幕府を倒さなければならない。しかし江戸幕府の統治は盤石であり、まともにやっても倒れないので、高杉は策を思い巡らさざるを得なかった。

 

そして彼が思いついたことには、まず攘夷を唱え列強と問題を起こし、それによってまず日本を内戦状態に引きずり込む。その内戦状態によって出て来る民衆の反発、元気を利用して江戸幕府を倒し、新たな政府を樹立して人材を一新し、しかるのちに開国して日本の実力をつける。

 

こうして見ると実に危うい大戦略だが、不思議なことに、日本の歴史はほぼ彼の構想通りに進んだ。もちろん高杉晋作が受け持ったのはその歴史の一部だけだったが、それでもこのような大戦略を思いつく大局眼と胆力はえらい。善悪はともかく、英雄の業だろう。

 

 

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なぜ高杉晋作の話をとつぜん持ち出したかと言えば、大きな戦略目標を達成しようとしたときに、あえて先の見えない状況を作りだし、そこに活路を見出す方策は有効だということが言いたかった。

 

高杉の例で言えば、攘夷を煽って問題を起こさせる、というのが先の見えない状況にあたる。

 

だが、リスクが高いやり方だ。失敗する可能性は低くないし、少なくとも安全とは言えない。

 

けれどもまっとうな手段では届かない目標を目指していたり、まったく動きそうにもない状況をどうしても事態を打開したいときには、そういう道もあるということだ。

 

現在の社会人に置き換えて、個人レベルで言えば、会社を辞めて、働かざるを得ない状況を作って起業するとか、そういう話になる。

 

大戦略を持った人が覚悟をもってやることであれば、敬いこそすれ、笑うべきことじゃない。

 

皆が自分の夢に向かって進めば素敵だ。どんどん頑張って欲しい。そのほうが日本は今よりもずっと面白く、住みやすい国になるような気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

そのときの思考を記録し保存する

前々の記事から、ブログの書き方をがっつりと変えている。

 

「もっと書きたいことを書いていきたい」と思い立った結果がこれである。自分ではいろいろ変えたつもりだけど、ぱっと見でわかるのは、「ですます調」だった文体を「である調」に変えたことだろうか。こっちの方が書きやすいから変えた。

 

より本質的な変更点は、このブログの役割を変えたことだ。いや、これより前のブログの役割が決まっていたとは言い難いので、ようやく役割を決めたという言い方のほうが正確なのだろう。それで、このブログの役割だが、「そのときの思考を記録し保存する」という役割を与えることにした。

 

思考を記録することを優先するためか、文章に粗が増えた感じがするが、おいおい回を重ねるうちに改善していく予定。(そう期待したい)

 

今は自己流の方法で量を重ねて経験値を積むフェーズのような気がしているので、しばらくはこのスタイルでいこうと思う。でもある日突然、文体やら書き方やらが変わっていたら、まあいろいろと察して欲しい。

 

 

 

コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない

 

「コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない」

 

これは幻冬舎編集者の箕輪氏の言葉だ。Twitterから引用。

 

文章を書くようになって、コンテンツとは一体なんだろうと考えることが多くなった。

辞書的には、コンテンツとは情報の中身という意味だ。もう少し付け加えると、見たり聞いたりして面白いもの、リピーターを集めるものが”良質な”コンテンツだと言われる。

 

じゃあ具体的にどんなものが良いコンテンツとなのか? そんな疑問が作り手にはつきまとう。

 

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冒頭の「コンテンツは、欠落と過剰からしか生まれない」はこの疑問を解くヒントになりうる。

 

欠落は足りないものへの「執着」を生み、過剰は興味の対象への「偏愛」を産む。

 

執着も偏愛も「好きなこと」の在り方のひとつだ。そして、ただ好きなだけなのではなく、その好きが「過剰」なのだ。この過剰な好きが、「尖った個性」を生む。尖った個性、ここに至れば、もう尖った個性そのものがコンテンツだ。平凡には埋没しない個性を面白がる人は多いだろう。

 

良くも悪くも話題になり、繰り返し閲覧され、認知が広まり、最終的に人の感情が動く。そこまで行けば感情が動くで「感動」になる。

 

作り手としてのレベルが高くなれば、どんな素材でも上手に料理して良質なコンテンツを作れるのだろうけれど。まずは、自分が好きなもの、こだわりのあるものが、コンテンツの始まりなのだろう。

 

 

 

 

 

「事事無碍」。AIが見る世界

 

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AIが着実に進歩している。将棋AIポナンザが名人を破り、碁AI AlphaGOが世界王者イ・セドルに完勝した2016年。両AIは将棋と碁の王者の座に君臨し続けていると思いきや、実はすでに引退してしまっている。次世代の将棋AI・碁AIがあっさりと伝説になったソフトをなぎ倒してしまったからだ。

 

将棋AIなどのAI全体の進歩が、ディープラーニングによるものだということは、広く知られている。何千何万、それ以上のとにかくたくさんの場面を記憶させて、AIを鍛える手法だ。

 

だが意外なことだが、ディープラーニングで鍛えたAIが、どのようなロジックで強くなっているかの因果関係は、既に開発者にもわからないという。AIなので覚えたものを忘れないことが強さの源泉だと勘違いしそうだが、実はそうではない。たとえば強くなるAIには、ランダムに覚えたパターンを忘れさせるプログラムを入れると、勝率があがるのだという。このレベルまで来ると、どうして勝率があがるのか、開発者にとってもAIの思考はブラックボックス化してしまうのだそうだ。不思議で、とても興味深い。人間の抽象化能力に似ているような気もする。

 

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人は「理論」と「ストーリー」によって物事を理解する。

物事に意味と関係性を与え、その中で価値評価をして「理解」という領域に至って、「わかった」という感情を得る。

たとえば、「AはBに似ているから、Bを引き寄せた。そしてその結果、AとBがくっつき、Cになった」のようなものだ。似ているもの同士は引きつけられ、近づくとくっつき、くっつくと新しいものが生まれる、というロジックは人間にも理解しやすい。ロジック同士のつながりも滑かだ。

 

だがディープラーニングで育てたAIは、機械は、そうではないのだという。機械は理論ではなく、AというインプットがあったらA’というアウトプットを返すだけなのだ。そのアウトプットは、過去の事例のから逆算して求められたもので、理論ではない。たとえば将棋の場合だと、記憶させた何千何万通りの棋譜から、現在の盤面と似た棋譜を持ってきて、そこからもっとも勝率の良い手を探して打つのである。「どうしてかはわからないけど、経験的にこうなる」という帰納法の積み重ねだと言えるのではないだろうか。

 

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筑波大学の研究者でメディアアーティストの落合陽一さんが、CINRA.NETで面白いことを話していた。

(落合氏)しかしこれからの時代、特徴量を人がコーディングしない機械学習、例えばディープラーニングなどによる解決の過程は人間には理解できず、抽象論の前に解決がやってきます。それは、あたかも華厳宗で語られている「理事無碍」と「事事無碍」のようなものでしょう。

難解!

さすがに記者が補足をいれてくれています。ありがとうございます。

 <記者補足> 理事無碍(りじむげ)とは「理性と現象とが無碍(邪魔するものがない)なる関係」であり、事事無碍(じじむげ)とは「現象の個物と個物とが融通する」(『華厳の思想』講談社学術文庫・鎌田茂雄著)こと。これまでは、人間の「理」によって「物」が生み出されてきたが、ディープラーニングを前提とした世界では、常に結果である「物」が先立ち、人間の「理」ではなく「物」と「物」との関係性によって世界が進んでいく……。

 

つまり、理と事がつながる関係は、人間の世界。

事と事だけでつながれる世界は、ディープラーニングによって育てられたAIの世界。

 

将棋に例えれば、理屈もなく、大量の事例を根拠に、相手の一指しをさばく解決策を提供する将棋AIは、「事事無碍」の世界にいると言える。たいして、過去の定石、理屈から解決策を導く人間は、「理事無碍」の世界にいると言える。

 

どちらの方法が優れているという問題ではなく、人間とAIは違う世界にいるのだということが言いたい。人間の延長という位置付けでAIを捉えがちだが、AIはもうすでに人間とは違う世界に居て、違うアプローチで物事を解決しているということは知っておいても良いと思う。というか、知っておくべきだ。

人間にとってAIはすでに全く異なった知能。だからその思考の道筋は人間からはまったく理解できないし、事象の相関関係は示せても、因果関係は示せない。原因と結果は逆かも知れないのだ。AIはとても賢いけれども、盲信する必要はないし、正しくない使い方もあるということだ。

 

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「追いつかれたと思ったら、その次の瞬間には追い抜かれている」

 

ポナンザの開発者の山本氏がその著書の中で書いていた言葉だ。

 

AIの進歩は累乗的速度で進んでいくので、先に走っている人間が追いつかれたと思ったときには既に遅くて、次の1秒後にはAIは遥か先に進んでしまっている。そして、両者の関係では、一度追い抜かれるともう追いつけない。

 

油圧機械ーーパスカルの原理で動く、油圧を使った重機と呼ばれるパワーショベルのような機械が出てきたとき、肉体労働の世界は大いに効率化された。

馬力という言葉がまだ残っているが、重い荷物を持ち上げたり、大きな岩を砕いたり運んだりするには、馬のような大きな動物に頼るしかなかった。あるいは舟の浮力を使うために、街に運河を縱橫に掘り、それを利用して肉体労働のコストを節約したりした。

だが今は油圧機械や自動車があり、重い荷物を運ぶのに馬や舟を使おうと発想する人はいない。ムキムキに鍛えた筋骨隆々人ですら、機械と張り合おうと考える人はいない。人が出せる力と機械が出せる力は10倍やそこらじゃ効かないからだ。そして肉体労働の価値は下落した。機械は強靭な肉体の代わりをすることができ、しかも機械の方が効率が良いからだ。

 

何が言いたいかと言えば、この先の20年、あるいはもっと短い期間に、知的労働においても肉体労働と同じことが起きるだろうということだ。もちろん人間にとってかわるのはAI。資本主義上の帰結として、人間よりも安く効率的なAIは、多くの場面で採用されるようになるだろう。そしてAIは世界を塗り替える。

 

SF物語だと思っていた世界が、自分が生きている時間軸のなかで実現する。そう考えると自分は幸運な時代に生まれて来たなあと思える。早くたくさんの未来が見たい。

 

 

 

 

 

「参考文献」

 

www.cinra.net

wired.jp

 

人口知能はどのようにして「名人」を越えたのか?

山本一成

 

超AI時代の生存戦略

落合陽一 

 

伝統は変えられないものではなく、アップデートできるもの

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お花見に行ったら、桜だけでなく菜の花も満開でした。ピンクと黄色で視界がものすごく華やかでとても綺麗でした。アルコールのないお花見だったので、それも良かったかも知れませんね。今の季節にしか見られないものを見ると、なんだか得したなと思えます。

それとともに、ちょっと変な感覚かも知れませんが、「ちゃんとした日本人」をやっているなという気になります。四季のうつろいとともに、諸行無常・生々流転の「もののあはれの美しさ」を感じるのが日本人の感性。古典文学が栄えた平安の時代から1000年経っていますが、DNAレベルでそういう感性が根付いているのでしょうね。

 

伝統芸能である歌舞伎の挑戦し続ける姿勢

 

日本の伝統芸能のひとつである歌舞伎の起源は、江戸時代の始まりのころ、おくにという女性が始めたかぶき踊りにあると言われます。しかしこのように女性が起源となった歌舞伎ですが、開始から20年ほど経ったのち、風紀の乱れを理由に幕府から禁令が出され、女性が歌舞伎を演じることができなくなりました。そこで、これまでの女性役を男性が演じ、廃業の危機を免れた、という説があります。女性がいなければ男性がやるしかない、というものですが、ものすごく柔軟な対応です。

その伝統の初期から柔軟だった歌舞伎は、明治の西洋化や終戦後のGHQの指導など、時代の変化を受けながらも、演目や演出に変化を加えつつ、庶民の娯楽としてあり続けて現代に至っています。

現代21世紀の歌舞伎は昔の演目を興行するだけでなく、ワンピースのような人気漫画やニコニコ動画とコラボしたり、さらに液晶大画面やプロジェクションマッピングのような新しい技術による演出も取り入れて、ショービジネスとして明らかに進化しています。ただ伝統芸能の座にあぐらをかくのではなく、常に新しいものを取り入れ、挑戦し続ける姿勢は素直にすごいと思います。

大衆娯楽としてあり続けるための努力、誇り、不屈のプロ魂を感じます。なんというか、歌舞伎は、プライドを正しいところ、あるべき場所に、置けていると感じます。

 

また話は飛びますが、夏目漱石芥川龍之介のような文豪と呼ばれる人たちは、明治の当時は大衆小説家に過ぎませんでした。伝統から大きく外れた新しいスタイルの表現を持ち込み、それが大衆に受け入れられた結果、後世から文豪としての名誉と権威を与えられています。

これは、彼等が体面にこだわらず、大衆に受けるものを提供したからこそ、後世からの高い評価があると思います。当時、もし伝統にこだわり、新時代の価値観に合わそうとせずに、古典的な文筆にしがみついていたら、きっと彼等は名を残すことはなかったでしょう。

 

 

伝統はアップデートできるもの

 

ところで、土俵上での挨拶のときに倒れた男性を助けるために、女性が土俵にあがり、救命活動を施している最中に、日本相撲協会の協会員が、土俵から下りるよう指示したという事件がありました。

女性が土俵から降りた後に塩を大量にまいたとか、男性の救命士をそもそも用意していないとか、危機管理も出来ていないのに、実務よりも女性差別を優先していて、非常に不愉快な話がいろいろありますが、わたしの考える一番重要な論点は次のひとつです。

 

最重要論点:

・女性だということを理由に、土俵上での救命活動を中断させようとした

 

伝統は一言で言えば文化、歴史の積み重ねによるものですので、軽く扱う気はありませんが、今の21世紀の価値観において、人命よりも尊いものはそうありません。

人命を天秤にかけるときは、その先により多くの人命が失われる危険があるときだけだとわたしは考えます。

伝統は絶対不可侵のものではありません。伝統のルールを深掘りすれば、そのルールはなにか、価値的なものを守るために設定されたはずです。ですが、時代が移り変わってその守るべきもの自体が無くなって、ルールだけが残っていることがあります。守るべきものがないルールは、変えたり廃してしまっても問題ないはずです。逆に形骸化したルールを残しておくことは、害が大きいことが多い。

伝統は時代を超えるものですので、このように不要になったルールを廃止したり、逆に新たに設定したりという手入れが必要です。今風の言葉で言えば、”伝統のアップデート”とでも言いましょうか。

先程の例で言えば、人命よりも大切なものは無いわけですから、救助活動する女性は例外としたり、男性の救命士を常設したり、そもそも土俵には力士と行事しか載せないようにするなどの対策があります。

いくらでも対策があり、ルールは柔軟な運用もできます。そのための協会です。

 

必要なアップデートが出来ない伝統は、ただの思考停止にしか過ぎません。

思考停止になれば、時代に合わないということですから、大衆の支持を失うことになるでしょう。そうなれば、その伝統まるごと、つまり相撲協会と相撲というスポーツがまるごと寿命を迎えたととらえられます。そうなれば、自然淘汰されていくのを見守るのが正しい姿なのでしょうね。

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

 

お花見。ふらっと来て、さらっと飲んで、ぱっと帰る。

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いやー我ながらありきたりなことを言うなって思うんですけど、桜っていいですよね。

桜の花が咲くと、春が来た! って感じになっちゃいますよね。ついそだねーってなっちゃいますね。桃とか梅とかもいいんですけど、やっぱり桜。思い入れは無いはずなのについつい桜にこだわってしまうのは、日本人のDNAですねきっと。

今年、中部地域は、3月20日過ぎに桜が咲いていたようで、このまま良い天気が続けば、4月初旬まで花が残りそうな感じです。ちょうど学校の卒業式と入学式にかかる日程なので、今年の卒業生・新入生には華やぎが添えられそうでよかったなあと思います。

そしてこの時期はお花見シーズン。花とお酒はきっても切り離せない、花をつまみに飲むお酒はなかなか乙なもの、しかも期間限定となると「これを逃すと来年までまたなければならない!」ということで、例に漏れず、わたしの会社でもお花見が企画されていますが、まーわたしの好みがおかしいのかも知れないんですけど、集団でお花見ってあんまり好きじゃないんですよね。あんまり楽しいと思ったことがない。

お花見ってだいたい寒いですしね。地面からひんやりとした冷気がお尻に伝わってくるし、天気が悪いと上着を羽織ってもなお寒い。山桜を楽しもうと思ったらさらに寒い山エリアにいかなきゃいけないですからね。ダウンジャケットを着込んで懐炉をふところに放り込んで、寒いのを我慢して冷たい麦酒を飲むとか、もはや苦行の域に達していますよね。

なんなんですかね、あれ。みんなそろって悟りでも開こうとしていたんですっけ。集団で涅槃にいこうっていう話しでしたっけ。そんな説明を一切受けた記憶が無いんですが、いったいなんのために花見をするんでしょうね? クーリングオフできるんですかね?

 

そんな寒さ嫌いの方のために良い解決方法を思いつきました。飲み会は1クール2時間が相場ですけど、お花見はクォーターの30分を1クールとするのはどうでしょう。30分くらいなら、外で寒いのを我慢しながらも花を楽しめそうな気がします。30分だったら準備するお酒の量も少なくて済むし、30分一集団あたりの飲み会の回転がよくなるから、花見エリアの人の混雑も緩和されるだろうし、うん、我ながら良案ですね。

30分だったらお弁当を食べるのにも良い時間じゃないですか? お団子派の人でも楽しめる。

 そういうわけで、花見は1回30分にしましょう。今流行の時短ですよ。

ふらっと来て、さらっと飲んで、ぱっと帰る。

来た、見た、勝った、じゃないですけど、ぱっと散るいさぎよい美しさを楽しむ桜の花見に相応しい、粋な楽しみ方じゃないですか。それが【30分花見】。読者諸賢におかれましてはぜひこの春にご検討ください。

 

 

 

そんな提案でした。

現場からは以上でした。好い天気です。

 

 

ミスドゴハンのホットドッグの質が高くてびっくりした。影のエースはこいつだった。

唐突なんですけど、ミスタードーナツって行きますか?

あのミスドと略されるドーナッツ屋さんなんですが、わたしは近所にあるので、休みの日の朝、ちょっと時間に余裕があるときにモーニングを食べに良く行かせてもらっています。あとミスドは、実はダスキンが親会社。豆知識。

で、そのドーナッツ屋さん。甘いドーナッツだけでなく、ミスドゴハンという甘くない商品ラインナップがあります。

 

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(ハムチーズ)

 

普通にパスタとか、ハムチーズを挟んだドーナッツとか、クラムチャウダーが入ったパイとか、たまごマヨトーストとかがあります。店舗で食べるとその場でヒートしてくれるので、熱々で食べれます。カロリーを気にする人のために、公式サイトでカロリーとアレルギーの情報が入っています。

 

 

で、そのミスドゴハンで地味にラインナップされているホットドッグ。

ホットドッグは動画紹介もなく、扱いも小さく、明らかに脇役的ポジション。でも食べて見るとこいつが一番美味い。(商品名はあつあつジューシードッグ)

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(公式サイトにも大きい写真すらない脇役)

 

もうオチを先に言っちゃったので記事はここで終わりでもいいんですが、まあ普通に美味しいんですよこれ。

まず挟んであるソーセージが美味い。商品名で例えて申し訳ないんですけど、長いシャウエッセンが挟んである感じ。皮がパリッとしていて、噛むとじゅわっとした肉汁が溢れてくるんです。その肉汁を、軽く焦げ目をつけた、さくっとした歯ざわりのソフトフランスパンが受け止めてくれるといった感じで、その塩梅がいい。

さくっぱりっじゅわっ、って感じで食べ進めるとあっという間に無くなってます。

そういうわけでファーストフードで食べるんだったら普通においしいです。シャウエッセンアルトバイエルンという商品名に反応する人には、特に強く推せる逸品です。

 

 

 

現場からはそんな感じです。以上でした。

 

 

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