読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

「事事無碍」。AIが見る世界

 

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AIが着実に進歩している。将棋AIポナンザが名人を破り、碁AI AlphaGOが世界王者イ・セドルに完勝した2016年。両AIは将棋と碁の王者の座に君臨し続けていると思いきや、実はすでに引退してしまっている。次世代の将棋AI・碁AIがあっさりと伝説になったソフトをなぎ倒してしまったからだ。

 

将棋AIなどのAI全体の進歩が、ディープラーニングによるものだということは、広く知られている。何千何万、それ以上のとにかくたくさんの場面を記憶させて、AIを鍛える手法だ。

 

だが意外なことだが、ディープラーニングで鍛えたAIが、どのようなロジックで強くなっているかの因果関係は、既に開発者にもわからないという。AIなので覚えたものを忘れないことが強さの源泉だと勘違いしそうだが、実はそうではない。たとえば強くなるAIには、ランダムに覚えたパターンを忘れさせるプログラムを入れると、勝率があがるのだという。このレベルまで来ると、どうして勝率があがるのか、開発者にとってもAIの思考はブラックボックス化してしまうのだそうだ。不思議で、とても興味深い。人間の抽象化能力に似ているような気もする。

 

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人は「理論」と「ストーリー」によって物事を理解する。

物事に意味と関係性を与え、その中で価値評価をして「理解」という領域に至って、「わかった」という感情を得る。

たとえば、「AはBに似ているから、Bを引き寄せた。そしてその結果、AとBがくっつき、Cになった」のようなものだ。似ているもの同士は引きつけられ、近づくとくっつき、くっつくと新しいものが生まれる、というロジックは人間にも理解しやすい。ロジック同士のつながりも滑かだ。

 

だがディープラーニングで育てたAIは、機械は、そうではないのだという。機械は理論ではなく、AというインプットがあったらA’というアウトプットを返すだけなのだ。そのアウトプットは、過去の事例のから逆算して求められたもので、理論ではない。たとえば将棋の場合だと、記憶させた何千何万通りの棋譜から、現在の盤面と似た棋譜を持ってきて、そこからもっとも勝率の良い手を探して打つのである。「どうしてかはわからないけど、経験的にこうなる」という帰納法の積み重ねだと言えるのではないだろうか。

 

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筑波大学の研究者でメディアアーティストの落合陽一さんが、CINRA.NETで面白いことを話していた。

(落合氏)しかしこれからの時代、特徴量を人がコーディングしない機械学習、例えばディープラーニングなどによる解決の過程は人間には理解できず、抽象論の前に解決がやってきます。それは、あたかも華厳宗で語られている「理事無碍」と「事事無碍」のようなものでしょう。

難解!

さすがに記者が補足をいれてくれています。ありがとうございます。

 <記者補足> 理事無碍(りじむげ)とは「理性と現象とが無碍(邪魔するものがない)なる関係」であり、事事無碍(じじむげ)とは「現象の個物と個物とが融通する」(『華厳の思想』講談社学術文庫・鎌田茂雄著)こと。これまでは、人間の「理」によって「物」が生み出されてきたが、ディープラーニングを前提とした世界では、常に結果である「物」が先立ち、人間の「理」ではなく「物」と「物」との関係性によって世界が進んでいく……。

 

つまり、理と事がつながる関係は、人間の世界。

事と事だけでつながれる世界は、ディープラーニングによって育てられたAIの世界。

 

将棋に例えれば、理屈もなく、大量の事例を根拠に、相手の一指しをさばく解決策を提供する将棋AIは、「事事無碍」の世界にいると言える。たいして、過去の定石、理屈から解決策を導く人間は、「理事無碍」の世界にいると言える。

 

どちらの方法が優れているという問題ではなく、人間とAIは違う世界にいるのだということが言いたい。人間の延長という位置付けでAIを捉えがちだが、AIはもうすでに人間とは違う世界に居て、違うアプローチで物事を解決しているということは知っておいても良いと思う。というか、知っておくべきだ。

人間にとってAIはすでに全く異なった知能。だからその思考の道筋は人間からはまったく理解できないし、事象の相関関係は示せても、因果関係は示せない。原因と結果は逆かも知れないのだ。AIはとても賢いけれども、盲信する必要はないし、正しくない使い方もあるということだ。

 

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「追いつかれたと思ったら、その次の瞬間には追い抜かれている」

 

ポナンザの開発者の山本氏がその著書の中で書いていた言葉だ。

 

AIの進歩は累乗的速度で進んでいくので、先に走っている人間が追いつかれたと思ったときには既に遅くて、次の1秒後にはAIは遥か先に進んでしまっている。そして、両者の関係では、一度追い抜かれるともう追いつけない。

 

油圧機械ーーパスカルの原理で動く、油圧を使った重機と呼ばれるパワーショベルのような機械が出てきたとき、肉体労働の世界は大いに効率化された。

馬力という言葉がまだ残っているが、重い荷物を持ち上げたり、大きな岩を砕いたり運んだりするには、馬のような大きな動物に頼るしかなかった。あるいは舟の浮力を使うために、街に運河を縱橫に掘り、それを利用して肉体労働のコストを節約したりした。

だが今は油圧機械や自動車があり、重い荷物を運ぶのに馬や舟を使おうと発想する人はいない。ムキムキに鍛えた筋骨隆々人ですら、機械と張り合おうと考える人はいない。人が出せる力と機械が出せる力は10倍やそこらじゃ効かないからだ。そして肉体労働の価値は下落した。機械は強靭な肉体の代わりをすることができ、しかも機械の方が効率が良いからだ。

 

何が言いたいかと言えば、この先の20年、あるいはもっと短い期間に、知的労働においても肉体労働と同じことが起きるだろうということだ。もちろん人間にとってかわるのはAI。資本主義上の帰結として、人間よりも安く効率的なAIは、多くの場面で採用されるようになるだろう。そしてAIは世界を塗り替える。

 

SF物語だと思っていた世界が、自分が生きている時間軸のなかで実現する。そう考えると自分は幸運な時代に生まれて来たなあと思える。早くたくさんの未来が見たい。

 

 

 

 

 

「参考文献」

 

www.cinra.net

wired.jp

 

人口知能はどのようにして「名人」を越えたのか?

山本一成

 

超AI時代の生存戦略

落合陽一 

 

伝統は変えられないものではなく、アップデートできるもの

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お花見に行ったら、桜だけでなく菜の花も満開でした。ピンクと黄色で視界がものすごく華やかでとても綺麗でした。アルコールのないお花見だったので、それも良かったかも知れませんね。今の季節にしか見られないものを見ると、なんだか得したなと思えます。

それとともに、ちょっと変な感覚かも知れませんが、「ちゃんとした日本人」をやっているなという気になります。四季のうつろいとともに、諸行無常・生々流転の「もののあはれの美しさ」を感じるのが日本人の感性。古典文学が栄えた平安の時代から1000年経っていますが、DNAレベルでそういう感性が根付いているのでしょうね。

 

伝統芸能である歌舞伎の挑戦し続ける姿勢

 

日本の伝統芸能のひとつである歌舞伎の起源は、江戸時代の始まりのころ、おくにという女性が始めたかぶき踊りにあると言われます。しかしこのように女性が起源となった歌舞伎ですが、開始から20年ほど経ったのち、風紀の乱れを理由に幕府から禁令が出され、女性が歌舞伎を演じることができなくなりました。そこで、これまでの女性役を男性が演じ、廃業の危機を免れた、という説があります。女性がいなければ男性がやるしかない、というものですが、ものすごく柔軟な対応です。

その伝統の初期から柔軟だった歌舞伎は、明治の西洋化や終戦後のGHQの指導など、時代の変化を受けながらも、演目や演出に変化を加えつつ、庶民の娯楽としてあり続けて現代に至っています。

現代21世紀の歌舞伎は昔の演目を興行するだけでなく、ワンピースのような人気漫画やニコニコ動画とコラボしたり、さらに液晶大画面やプロジェクションマッピングのような新しい技術による演出も取り入れて、ショービジネスとして明らかに進化しています。ただ伝統芸能の座にあぐらをかくのではなく、常に新しいものを取り入れ、挑戦し続ける姿勢は素直にすごいと思います。

大衆娯楽としてあり続けるための努力、誇り、不屈のプロ魂を感じます。なんというか、歌舞伎は、プライドを正しいところ、あるべき場所に、置けていると感じます。

 

また話は飛びますが、夏目漱石芥川龍之介のような文豪と呼ばれる人たちは、明治の当時は大衆小説家に過ぎませんでした。伝統から大きく外れた新しいスタイルの表現を持ち込み、それが大衆に受け入れられた結果、後世から文豪としての名誉と権威を与えられています。

これは、彼等が体面にこだわらず、大衆に受けるものを提供したからこそ、後世からの高い評価があると思います。当時、もし伝統にこだわり、新時代の価値観に合わそうとせずに、古典的な文筆にしがみついていたら、きっと彼等は名を残すことはなかったでしょう。

 

 

伝統はアップデートできるもの

 

ところで、土俵上での挨拶のときに倒れた男性を助けるために、女性が土俵にあがり、救命活動を施している最中に、日本相撲協会の協会員が、土俵から下りるよう指示したという事件がありました。

女性が土俵から降りた後に塩を大量にまいたとか、男性の救命士をそもそも用意していないとか、危機管理も出来ていないのに、実務よりも女性差別を優先していて、非常に不愉快な話がいろいろありますが、わたしの考える一番重要な論点は次のひとつです。

 

最重要論点:

・女性だということを理由に、土俵上での救命活動を中断させようとした

 

伝統は一言で言えば文化、歴史の積み重ねによるものですので、軽く扱う気はありませんが、今の21世紀の価値観において、人命よりも尊いものはそうありません。

人命を天秤にかけるときは、その先により多くの人命が失われる危険があるときだけだとわたしは考えます。

伝統は絶対不可侵のものではありません。伝統のルールを深掘りすれば、そのルールはなにか、価値的なものを守るために設定されたはずです。ですが、時代が移り変わってその守るべきもの自体が無くなって、ルールだけが残っていることがあります。守るべきものがないルールは、変えたり廃してしまっても問題ないはずです。逆に形骸化したルールを残しておくことは、害が大きいことが多い。

伝統は時代を超えるものですので、このように不要になったルールを廃止したり、逆に新たに設定したりという手入れが必要です。今風の言葉で言えば、”伝統のアップデート”とでも言いましょうか。

先程の例で言えば、人命よりも大切なものは無いわけですから、救助活動する女性は例外としたり、男性の救命士を常設したり、そもそも土俵には力士と行事しか載せないようにするなどの対策があります。

いくらでも対策があり、ルールは柔軟な運用もできます。そのための協会です。

 

必要なアップデートが出来ない伝統は、ただの思考停止にしか過ぎません。

思考停止になれば、時代に合わないということですから、大衆の支持を失うことになるでしょう。そうなれば、その伝統まるごと、つまり相撲協会と相撲というスポーツがまるごと寿命を迎えたととらえられます。そうなれば、自然淘汰されていくのを見守るのが正しい姿なのでしょうね。

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

 

お花見。ふらっと来て、さらっと飲んで、ぱっと帰る。

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いやー我ながらありきたりなことを言うなって思うんですけど、桜っていいですよね。

桜の花が咲くと、春が来た! って感じになっちゃいますよね。ついそだねーってなっちゃいますね。桃とか梅とかもいいんですけど、やっぱり桜。思い入れは無いはずなのについつい桜にこだわってしまうのは、日本人のDNAですねきっと。

今年、中部地域は、3月20日過ぎに桜が咲いていたようで、このまま良い天気が続けば、4月初旬まで花が残りそうな感じです。ちょうど学校の卒業式と入学式にかかる日程なので、今年の卒業生・新入生には華やぎが添えられそうでよかったなあと思います。

そしてこの時期はお花見シーズン。花とお酒はきっても切り離せない、花をつまみに飲むお酒はなかなか乙なもの、しかも期間限定となると「これを逃すと来年までまたなければならない!」ということで、例に漏れず、わたしの会社でもお花見が企画されていますが、まーわたしの好みがおかしいのかも知れないんですけど、集団でお花見ってあんまり好きじゃないんですよね。あんまり楽しいと思ったことがない。

お花見ってだいたい寒いですしね。地面からひんやりとした冷気がお尻に伝わってくるし、天気が悪いと上着を羽織ってもなお寒い。山桜を楽しもうと思ったらさらに寒い山エリアにいかなきゃいけないですからね。ダウンジャケットを着込んで懐炉をふところに放り込んで、寒いのを我慢して冷たい麦酒を飲むとか、もはや苦行の域に達していますよね。

なんなんですかね、あれ。みんなそろって悟りでも開こうとしていたんですっけ。集団で涅槃にいこうっていう話しでしたっけ。そんな説明を一切受けた記憶が無いんですが、いったいなんのために花見をするんでしょうね? クーリングオフできるんですかね?

 

そんな寒さ嫌いの方のために良い解決方法を思いつきました。飲み会は1クール2時間が相場ですけど、お花見はクォーターの30分を1クールとするのはどうでしょう。30分くらいなら、外で寒いのを我慢しながらも花を楽しめそうな気がします。30分だったら準備するお酒の量も少なくて済むし、30分一集団あたりの飲み会の回転がよくなるから、花見エリアの人の混雑も緩和されるだろうし、うん、我ながら良案ですね。

30分だったらお弁当を食べるのにも良い時間じゃないですか? お団子派の人でも楽しめる。

 そういうわけで、花見は1回30分にしましょう。今流行の時短ですよ。

ふらっと来て、さらっと飲んで、ぱっと帰る。

来た、見た、勝った、じゃないですけど、ぱっと散るいさぎよい美しさを楽しむ桜の花見に相応しい、粋な楽しみ方じゃないですか。それが【30分花見】。読者諸賢におかれましてはぜひこの春にご検討ください。

 

 

 

そんな提案でした。

現場からは以上でした。好い天気です。

 

 

ミスドゴハンのホットドッグの質が高くてびっくりした。影のエースはこいつだった。

唐突なんですけど、ミスタードーナツって行きますか?

あのミスドと略されるドーナッツ屋さんなんですが、わたしは近所にあるので、休みの日の朝、ちょっと時間に余裕があるときにモーニングを食べに良く行かせてもらっています。あとミスドは、実はダスキンが親会社。豆知識。

で、そのドーナッツ屋さん。甘いドーナッツだけでなく、ミスドゴハンという甘くない商品ラインナップがあります。

 

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(ハムチーズ)

 

普通にパスタとか、ハムチーズを挟んだドーナッツとか、クラムチャウダーが入ったパイとか、たまごマヨトーストとかがあります。店舗で食べるとその場でヒートしてくれるので、熱々で食べれます。カロリーを気にする人のために、公式サイトでカロリーとアレルギーの情報が入っています。

 

 

で、そのミスドゴハンで地味にラインナップされているホットドッグ。

ホットドッグは動画紹介もなく、扱いも小さく、明らかに脇役的ポジション。でも食べて見るとこいつが一番美味い。(商品名はあつあつジューシードッグ)

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(公式サイトにも大きい写真すらない脇役)

 

もうオチを先に言っちゃったので記事はここで終わりでもいいんですが、まあ普通に美味しいんですよこれ。

まず挟んであるソーセージが美味い。商品名で例えて申し訳ないんですけど、長いシャウエッセンが挟んである感じ。皮がパリッとしていて、噛むとじゅわっとした肉汁が溢れてくるんです。その肉汁を、軽く焦げ目をつけた、さくっとした歯ざわりのソフトフランスパンが受け止めてくれるといった感じで、その塩梅がいい。

さくっぱりっじゅわっ、って感じで食べ進めるとあっという間に無くなってます。

そういうわけでファーストフードで食べるんだったら普通においしいです。シャウエッセンアルトバイエルンという商品名に反応する人には、特に強く推せる逸品です。

 

 

 

現場からはそんな感じです。以上でした。

 

 

taftaftaf.hatenablog.com

 

 

 

同調圧力に反対なのでダイバーシティが好きになりました

 

日本って同調圧力が強いじゃないですか。

 

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同調圧力とは、簡単に言えば、みんなと同じようにしなさい、みんなと同じように感じなさい、同じ価値観で動きなさいっていう奴ですね。

そして閉鎖的なところほど同調圧力が自然と強くなるんですよ。

 

ところで、わたしって価値観を押し付けられるのってすごく嫌いなんですよね。

だから相手に価値観を押し付けないようにしています。自分がされて嫌なことは相手にもしないようにしているわけですね。

たとえば自分の中で結論が出ていても、相手に選んでもらうようにしています。あまり心的距離が近くなるとこれもやっぱり強制になることがあるので、深い関係になる必要のない人には、そもそも初めからあまり近づきすぎないようにしていたりするんです。

 

どちらかというと、ビジネスライクな付き合いのほうが好きなタイプなんですよね。ビジネスライクって言うだけでなんだか一人前な空気感が出て誤魔化せそうですけど、まあ社交性が低いだけなんですけどね。

 

で、閉鎖的な環境で育ってきた方というのは、同調圧力があるのが自然なんですよね。同調圧力が無い環境を体験したことがないから、どういう状況が同調圧力をかけているということなのかがきっと把握できないんだと思います。

職場には、学校から就職までずっと地元という人も少なからずいらっしゃるんですが、ものすごくナチュラルに、確実に悪気なく、ジャイアン的に、同調圧力を使ってくるんですよね。もう押して押して押しまくってくる。

 

価値観を押し付けられるのが嫌いなわたしにとっては、その悪気ない同調圧力がものすごく嫌だと感じる瞬間があって、それがどうしても馴染めないと感じることがままあります。人間ですからね、もう偽っても偽りきれないところがあるわけです。

すごく勝手な言い分だと自分でも思うのですが、わたしからするとそういう方は、歩く暴風雨ななんです。巻き込まれたくない!

 

そうは言っても仕方が無いので、大人になったり無になったりして受け流しております。ときおり同調したかのように動いたりしますが、そのときに目に光が無いこともあるかと思います。まあ長寿命を誇るLEDライトだって点かないことがありますからね、生物の目に光が無いこともありますよ。そりゃあね。

 

 同じ価値観の人間ばかりだと質の良い意思決定ができないという研究結果があって、さらに同じ人間ばかりだと環境変化に弱くなるんですよね。だから同調圧力が強すぎる企業は、将来的に危機に陥る可能性が高くなる。

 

だから各企業は、まさに今、こぞって多様性・ダイバーシティを強化しようとしているんですよね。時代は多様性に傾いています。多様性ということは、相手の価値観を認めるということです。つまりは自分と相手との価値観が違っていても、それを問題にしない。きっとダイバーシティ化が進めば、今は空気のように存在している同調圧力もやわらいで、もっと生きやすい世の中になるのでしょうね。

ダイバーシティも進んで、ダイバーシティ2.0にアップデートされようとしていますから、さっさとアップデートを終わらせてもらいたいものです。もっと早く社会が進歩すればいいのにと本気で願ってます。

 

 

 

 

 

 

現場からはそんな感じで。以上でした。

 

 

「トークン」とは何か。調べてみたので結果を報告します。

 

トークン(Token)。

 

仮想通貨界隈でよく聞く「トークン」という言葉ですが、これが一体なんなのか? ずっと疑問でした。

とりあえず、特定の仮想通貨から生成できるもので、さらに機能については明確に説明されているのでわかります。

最近、イケハヤさんが記事にまとめていましたね。わかりやすく「トークンの5分類」を解説するよ。 : まだ仮想通貨持ってないの? 明快でわかりやすいです。

 

しかしこれはトークンを機能という一面から説明しただけで、まあ現代で使う分には充分なんですけれども、「そもそもトークンとは何なのか?」という自分の疑問は解消できませんでした。

 

そういうわけで、レッツ調査。

 

1. 辞書によると

 

英和辞書でTokenを調べると

1 しるし,象徴; 証拠
  as a token of my appreciation 私の感謝のしるしとして.
2 記念品,形見; 証拠品.
3 (地下鉄・バス料金などに用いられる)代用貨幣トークン.
4 [通例修飾語を伴って] 《主に英国で用いられる》 (商品との)引替券. 

 

それから、Wikiを調べると

トレーディングカードゲームにおいて、カードの効果によって生み出された手駒(クリーチャー、ユニット、モンスター等)を示す目印のこと。

 

しるし、代用貨幣、手駒を示す目印。

うーん、わかるようでわからない・・・もやもやする・・・・・・。

 

 

2. キーワードは「文字以前」「シュメール文明」

 

シュメール文明」をご存知でしょうか。簡単に説明しますと、紀元前3500〜3200年頃にメソポタミア南部に興った最古の都市文明です。この都市文明からウルク古拙文字と呼ばれる文字が生まれてくるのですが、その文字の発明以前に使われていたのがトークンです。トークンは計算具として使われていました。(参照:世界の文字

 

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トークン写真(http://www.usu.edu/markdamen/1320Hist&Civ/chapters/16TOKENS.htm

 

トークンは1センチ程度の大きさの、様々なかたちをした粘土片だそうです。(実際には焼いてあるので焼き物、陶片という表現のほうが実感としてわかりやすいと思います)

 

さらに参照したサイト:世界の文字では、下記のような指摘をしています。

 

1977 年以後,シュマント=ベセラット(Denise Schmandt-Besserat)はウルク文字の起源について,次のような指摘を行っている。ウルク文字に先行する段階として,紀元前 9 千年頃からすでに,イラク,イラン,トルコ,シリア,イスラエルパキスタン,インド,エジプトなどの広範囲にわたって記録用粘土標(クレー・トークン clay token)が記憶の補助手段として使用されていた 

 

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というわけで。

 

でもトークンの起源が紀元前9千年にあり、その指摘が1977年(結構最近)にあったということがわかりました。

 

そして、トークンは計算具記録用粘土標だということです。そのトークンが文字になった、と……。

 

さすが教科書記述。いったいなんのことやらという感じですよね。

 

 

3. 補完される情報

 

歴史を変えた6つの飲物  ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、茶、コーラが語る もうひとつの世界史 という本があります。ちょうど読んでいた手持ちのこの本に、トークンについての記述がありました。ちょっと長いですが引用します。

 

税としてなにを納め、対価としてなにを支払ったのかを記録しておく必要があった。そこで税の領収書として考えられたのが、土の”封筒”にトークンを入れておくという方法である。この土の”封筒”は粘土で貝殻状に作ったブッラと呼ばれるもので、揺すると、なかにいれたトークンが転がって音を立てた。穀物、布地、あるいは個々の家畜の標準的な量を表すのに、さまざまな形のトークンが使われた。なにか物を神殿に納めると、それに見合うトークンが土製の封筒に入れられた。そして、なかのトークンと税として納めた品が合っていることを示すために、徴税者と納税者がそれぞれの印章を封筒の土の湿った部分に押した。そのうえで封筒は神殿に保管された。

 

なるほど! ストーリーの辻褄は合いました。つまりはこういうことでしょう。

 

たとえば。

村人Aさんが神殿に穀物と布地と牝羊を1単位ずつ納税した。

本来、領収書の発行、あるいは納税台帳に記録がされるべきですが、残念ながら文字がまだ無い時代、納税書類は発行できない。かといって記録しないとあとで揉め事の種になる。

なので、納税した分だけ、それに対応する粘土片を土封筒に封入し、それを記録にした。

この場合は、神官が、穀物トークン1つ、布地のトークン1つ、牝羊のトークン1つを村人Aさんのために発行。

そして、記録として保管する……。

 

トークンは意味を持った粘土標で、ひとつひとつが穀物や布地や牝羊、その他に数詞の意味を持っています。これを封筒に封入することで意味を組み合わせ、現代でいう納税証明書や領収書、他にも借用書として機能していたようです。前項のトークンは計算具で記録粘土標だという定義にも当てはまりますね。

 

トークンは1形状で1つの意味を表すようですが、複合トークンのようにくっつけて上級の意味をもたせたりもしたようです。さらに複数のトークンを1つの封筒に入れられるのであれば、領収書よりも複雑な契約の覚書のようにも機能させることができていたのかも知れませんね。このあたりは考古学的なロマンですな。

 

そして紀元9000年から使われていたこのトークンですが、紀元3500ー3200年ごろ、「トークンをいちいち土封筒に入れて保管するのは面倒だ。トークンを粘土板に押し付けて、印をつけて、それを記録っていうことにしておけばよくね?」ーーと考えた人がいたのかどうかわかりませんが、とまれ、トークンからより便利な「文字」が発明されました。トークンはこうして本来の意義を失ってその姿を消していくとことになったわけですね。

 

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(記録用粘土標=トークンが、「文字」に変わっていく)

 

4. まとめ トークンとは

 

まとめると。

・元祖トークンは粘土片

・計算具・記録用粘土標として使われていた

・文字の発明よりも前のすっごい昔に、文字の代わりに使われていた。(たぶん)原則的には1形状で1意味。布地トークンとか牝羊トークンとかある

・土封筒にまとめられて、納税証明書や領収書の代わりになっていた

 

 

ということです。

 

歴史的なトークンの使われ方を踏まえると、しるし、代用貨幣、手駒を示す目印 という意味が派生してきたのはわかりますね。

 

粘土片である牝羊トークンは、牝羊というナマの存在価値に対応する、記録媒体だったとも言えるでしょう。価値の記録媒体としてのトークンを流通させれば、それは通貨の代わりとしても使えただろうことも想像できます。もちろん、使用者も交換対象も制限されて、現在の通貨ほど便利なものではなかっただろうことは前提ですが。

 

仮想通貨から派生するトークンは、様々な意味や役割を、デジタル物質に付与することができます。紀元前のトークンとはさすがに比べ物にならない便利さです。現代のトークンが充分に活用できるように環境を整備していきたいものですね。

 

 

 

 

 

本日は当ブログにお越しいただきありがとうございました。

記事をまとめるのに結構時間がかかってしまいました。

 

 

被災者と呼ばないで(Don’t Call Us Victims)

福島県飯舘中学校の生徒が、英語弁論大会の全国大会で発表した原稿が掲載された記事を見つけたので、リンクを下に貼っておきます。

あのときから7年が経って、正直どう応援したらいいかわからないのですが、まずは現地の声を拾うところからなのかなと。

 

全国大会原稿:被災者と呼ばないで(Don’t Call Us Victims)

http://hanamarukoukyouiku.blogspot.jp/2018/02/