読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

【ジョブ理論】と【9プリンシパル】

 

クレイトン・M・クリステンセンさんの「ジョブ理論」と伊藤穣一さんの「9プリンシパル」を読んでいる。なかなか面白い。

 

なぜあの商品は売れなかったのか?
世界の経営思想家トップ50(Thinkers50)連続1位。
「破壊的イノベーション論」の提唱者、クリステンセン教授による、待望の最新刊!

顧客が「商品Aを選択して購入する」ということは、
「片づけるべき仕事(ジョブ)のためにAを雇用(ハイア)する」ことである。

Amazon内容紹介)

 

 

 

 

 

私たちはいま、激変する世界に生きている。
この変化は例えて言えば、世界を動かすOSが一新されたような大変化だ。
しかもこれは、少々バージョンアップがされているだけではない――
新しいメジャー・リリースなのだ。だから、慣れるまでに時間がかかる。
本書はこの、世界というシステムの新しい論理についての、シンプルだが強力なガイドラインである。
ビジネスの「ゲームのルール」の激変ぶりに、イノベーションの恐るべきペースの速さに、
むち打ち症(whiplash)にならずついていくために不可欠な、
「9の原理(ナイン・プリンシプルズ)」。 

 (Amazon内容紹介)

 

 

 

 

 

 

社会のバージョンアップで法整備が大変そうだから、推進させるアイデアを考えてみた

車の自動運転、仮想通貨、遺伝子治療など、新技術の登場で社会がまたバージョンアップしようとしています。VALUなんてもうまった無しの段階ですね。

 

そんな中、運用するための法律の制定の進みが遅いことが問題になっています。むべなるかな。現在の社会の仕組みだと当然のことだと思います。

 

規定の法規制の網にひっかからないような新しいサービス、商品、存在が出てきたときに、なぜ法律の制定が遅れるのか。日本の法制度というものが本質的にコンサバであるというのもその理由のひとつですが、わたしが思うに、法律を制定する前段取として、新しく登場したサービスや財のその本質を考え、分析、論じ尽くす作業をする人がいないからではないでしょうか。

 

いや、厳密にはいます。おそらく官僚や議員、まあ官僚がメインでやっていると思います。しかし、いくら優秀な官僚と言っても、新しいモノの本質をつかむには深く考える時間と議論が必要です。多忙な実務担当者にすべて任せるのはちょっと無理があるような気がします。

 


1) 相反する利益を守るのがルール。新しいモノへのルール設定は難度が高い

 

法律は、何かを守るためのルールです。

 

守るべきものがひとつだけならルールの設定は簡単ですが、ルールを決めなければいけないような事案は、だいたいいくつかの利益が相反関係にあるので、天秤がどちらかに傾き過ぎないようにするのがルール、法律の役割です。気ぜわしいですね。

 

相反する利益をバランスよく守ることのできるルールを設定するためには、その対象を、変な言い方かもしれませんが、抽象的に深く理解しておかなければいけません。

 

既存のものならこれまでの歴史で論じつくされていますが、新しいモノは、まだ本質が何か、未来はどうなるのか、どうするべきか、がわかりません。そういうことがわかってこないと、どの程度、どういう風にルールを設定すればいいのかわからないんですね。難度が高いミッションだと思います。

 

 


2)官僚さん涙目?

 

それで話を戻すと、本来こういう本質的な議論をするのは学者さんの役割になるとわたしは考えています。けれど、ご存知のように、現在の人文系の学者たちはその部門が専門化・細分化されており、新しいモノについてはだいたい専門外、まったくお手上げ、といった感じです。

 

20世紀末から21世紀初頭にこれだけ社会を変えた「インターネット」についても、日本の文系学者がその価値を論じている本はめったに見ません(私見です)。本屋やAmazonで見かけるのは、一番は外国の学者の翻訳本、次に日本の「有識者?」の解説本、そして新しく台頭しているブロガー等による解説本です。

 

法律を作るために新しいサービスの勉強をしようとしても、権威ある専門家がいないわけです。官僚さんもきっと涙目ですよね。次の行動として、大学の有識者のところにいろいろと質問しに行くのでしょうが、聞かれた有識者も普段研究していなかったら、回答する方もつらいのでしょうね。理系の専門家の意見を聞くとしても、彼らは技術の専門家であって、そのサービスを使って人間社会で起こりうるケーススタディの専門家ではないでしょうから、下調べからして難度が高そうです。

 

 

 


3)新しいモノの受け皿になる学問とアンサー案

 

新しい技術が出るその度に、新分野を創設してもいいとは思うのですが、新分野の改廃はけっこう非経済ですよね。

 

新しい技術が社会で実用化されるとき、その本質を考え社会に起こる影響の分析を一手に引き受けて考えてくれる、そんな受け皿となる学問があるのが一番です。そんな便利な学問はない……と言いつつも、世界の成り立ちと人の生き方についてひたすら考えるという学問をひとつ思いつきました。

 

それは 哲学です。

 

古代ギリシアを源流とする哲学は、世界の成り立ちも考える学問でした。この哲学者は万物は火であると言ったとか、別の人は水だとか、ある人は流転する、と主張したとか、高校の授業で覚えさせられたと思います。人間世界の周囲にある世界をどう認識するかというのは、どう生きるかにも関わってきます。

 

現代日本だと「人間がいかに生きるか」というテーマにやけに偏っていてショーペンハウエルとかデカルトとかなんとなく鬱っぽくて難解な本を分析している、という印象ですが、米国だと先進的ビジネスの基礎教養のように認識されているプログラムと並んで、哲学は人気学部らしいです。物事の本質を突き詰める姿勢が受けるんだとか。

 

そういうわけで、哲学が新境地を切り開いていくのはどうでしょうかね。

 

 

人文系の学問を学んでも仕事が無いと言われますけれど、どちらかというと「仕事があるのにしていない」という印象が強いんですよね。

 

たとえば、こんな問題があるとします。

 

遺伝子治療で倫理的に許される範囲はどこまでか、過去の類例・治療例を元に選択肢を示せ」とか。
「自動運転による交通事故の加害者に与える法的保護はどの程度必要か。判例および20世紀のモータリゼーションの進展と合わせて考えを示せ」とか。
「信用経済による資金調達方法では、どのような被害が想定されて、どのような規制方法を取るのが適当か。3案示せ」とか。

 

法律を作るにあたっては、このくらい問答を、しかもこの何倍と考えているでしょうからね〜(予想)。でもこのくらいのことでも解答を作るのに専門書を2〜3冊読んでおきたいですよね。わたしの場合は読んでも解答書けるかどうかわかりませんけど。。。

 

課題を考えるだけでなく、基調を説明した専門書を書いて供給してくれる人文系学者の層がどれだけ分厚いかがポイントでしょう。物事の本質を専門に考える哲学を基軸に、人文系学者が集まるとなんだか良さげじゃないでしょうか。

 

法律草案を作成する最後は、頭の良い官僚に丸投げするしかないんですけど、今は丸投げする土壌を急いで整えてやらないといけない気がしています。畑づくりと一緒ですね。こんな風に社会が動くと、きっと楽しそうですね。

 

 

 

 


本日は当ブログにお越しいただきありがとうございました。
なんだかやたら長くなりました。長文お読みいただき感謝です。

 

 

 

無限の情報と「アテンション」の価値

いつものことながら、突然ですが。

 

市場というモノは、交換するための場所です。交換するものとされるもの、ふたつがそろって市場は機能します。

 

たとえばある村人は野菜を差し出し、肉が欲しいとする。一方で猟師は肉を差し出し、野菜が欲しいとする。

 

もし供給される野菜が肉よりも多ければ、野菜は肉よりも安くなります。逆に、野菜よりも肉が多ければ、肉の価値が相対的に下落します。このように、市場は天秤のように、多く供給されるものの価値を下げ、逆に希少性のあるものの価値をあげる。そういう機能があります。

 

この市場の考え方はいろいろなことに応用ができます。現代の市場経済に生きる私たちは常に何かを交換しています。

 

 


1) 情報の価値が下落

 

現代ではいろいろなものが大量供給されています。食べ物は当然、便利な電化製品や移動手段も充実して安価に手に入れることができるようになりました。50年前、100年前というスパンで考えれば生活水準は比較が難しいほど差があります。

 

インターネットの登場により、誰もがデジタルコンテンツを発信できるようになり、情報も大量に供給されることになりました。世界の誰かのつぶやきが一瞬で世界中に広がり、誰かがアップロードした意見がその国の国民に伝わります。個人サイトでも月に数十万PVを得ることができ、賢い誰かがそこに広告価値をつけることで、商業的な価値も付加されることになりました。これからも提供される情報はさらに増え、一方で情報の価値は下落し続けるでしょう。

 

そんな情報過剰社会で、価値があがり続ける一方のものがあります。

 

皆さんはそれが何だか想像できるでしょうか。

 

それは、「アテンション」と呼ばれるものです。

 

 

 


2) アテンション

 

 

「アテンション」という言葉をわたしが初めて確認したのは「〈インターネット〉の次に来るもの」という本が最初です。

概念は簡単です。どういうものかといいますと。

 

例えば、あなたは毎日たくさんのサイトを閲覧します。サイトはたくさんありますが、そのすべての情報を精読しているわけではないはずです。おそらく多くのサイトを斜め読みして、面白そうな情報があったときだけ、意識を向け、ゆっくり読んで内容を把握しているのではないでしょうか。

 

この「意識を向け、ゆっくり読んで内容を把握する」ことを、わたしの理解での説明で恐縮ですがーー、「アテンション」と呼んでいます。

 

 


3)「無限の情報から選ばれること」

 

アテンションとは、「無限の情報から選ばれること」とも言い換えることができます。無限にあるということは、それが無価値であることとほぼ同義です。情報は、今の社会では無価値なのです。アテンションにより、情報は初めて有価値となります。


これからの社会は、アテンションを得ることができる人がさらなる価値を持つことになるでしょう。なんといっても、そのままでは無価値な情報を有価値に変えることのできる人なのですから。インフルエンサーという耳慣れない存在が発現してきたことも、その事象を裏付けているといえるでしょう。

 

アテンションを得ることができる能力が、これからの未来を生き抜く上でさらに重要さを増します。このアテンションを得るちからをすでに持っている人はより有利に、持っていない人はアテンションを得る能力を身につけるために努力することになります。

 

自分はもちろん後者です。才能は無いので地道にやっていく派です。

 

 

 

 


本日は当ブログにお越しいただきありがとうございました。
日頃起こっている現象をまとめてみました。時代は変わりますね。

 

 

 

「環境適応戦略」を考えてみた

 

1.「環境に適応できるものが生き残る」

 

よく取り上げられるダーウィンの例え話に、「生き残るのは強いものではない。環境に適応できるものが生き残る」なんて言われます。

 

環境に適応できる、と言ってもみっつほどやり方があって。ひとつは①自分自身を環境に合うように変化させるというアプローチ。もうひとつは、②自分自身に合う環境を探しに行くという方法。最後に、③自分自身に合うように環境を作り変えてしまう、という方法です。

 

例えるならば、カメレオンのように自分の色を変えたり、渡り鳥のように遠い距離を移動したり、そしてビーバーのようにダムを作って自分の生きやすい環境にしたり、といろいろです。生存戦略ですから、それは個人の数だけパターンがあり、最適解は人によって違うでしょう。

 

大切だと思われることは、「自分が何者かを良く知ること」「今いる環境を充分に分析すること」でしょうか。カメレオンが適応できる環境を探そうとしてもたいして遠くへ行くことはできないでしょうし、渡り鳥が冬も南に渡らずに温かい巣を作ろうとしてもうまくいかないでしょう。

 

正しい環境適応戦略を選ぶには、まず自分が何者で何ができるかをよく知ることが大切だと言えます。

 

 

2.隣の芝生は青くみえがち

 

環境適応戦略を選ぶ前に、環境を変えるほどに現状は悪いものであるかどうか? 確認する必要があります。

 

また、自分が環境に適応できているかどうか確認することは、逆説的ですが、環境に適応できていない状態を良く知ること、とも言えます。

 

自然界ならば餌が豊富で気候が体に合っていればいいのでしょうが、これを人間に当てはめると、「個人の価値観」という要素が入ってきて問題が複雑になります。単純にお金が稼げればいいとだけ考える人(労働の本義だと思いますが)は少数派で、多くの人は、職場での人間関係とか、やりがいとか、将来への展望などを求めます。

 

こういうことを一度考え始めると、世間に言う人間の欲というものは罪なもので、途端に隣の芝生が青く見え始めます。SNS社会では、嘘か本当かわからないような成功事例やリアルで充実した生活が数多くアップロードされています。めまぐるしいくらいツィッターフェイスブックに誰かの、実に楽しそうな、悩みなんてどこにもないような写真があがっています。

 

こうした生活を羨ましいと思い、自分の生活と比較しがちですが、アップロードされている写真というのは、楽しい時間を切り取っただけのものです。SNSで楽しそうにしている投稿も、その一瞬がすぎれば、たとえば人間関係で悩んでいるのかも知れません。投稿が炎上して困っているかも知れません。誰もが、楽しみと苦しみを天秤にかけて、楽しみの方に傾く生活を選び取っています。SNSの先にいる人はその人にあった生活をとった結果なのです。SNSの先にいる人が選び取った生活が、自分に合っているかどうかは、また別の話なのです。

 

ひょっとしたら、貴方が微量な不満を抱えている生活は、実は貴方にとって最適解である可能性があるということです。もしくは、ほんの少し考え方を変えたり、行動を変えるだけで、ずっと快適になるかも知れません。

 

生活上の不満というのは、往々にして虫眼鏡効果で拡大して捉えがちなもの。正しい姿を見失いがちですから、自分も気をつけるようにしています。

 

 

3.問題の大きさを慎重に見極めて、環境適応戦略をとろう

 

話が長くなりましたが、「環境に適応できる」というのは、「失敗や不都合から学べる」ということが前提になります。失敗や不都合から学びを得て、対策する。小さなPDCAのサイクルを回して少しずつ回すのが日常の生活です。

 

しかし、対策のうちようがない、もしくは現時点で実行不可能な対策しか出てこないというときがあります。そのときは、問題が「環境適応問題」のレベルに達した、ということです。そう、「環境適応問題」というのはけっこう大掛かりな問題で、解決するのに結構コストがかかるものなんです。日常にある小さな不満を環境適応の問題にすり換えて解決しようとすると、逆に大変な問題が発生することがあるので、注意が必要です。問題の大きさのレイヤーを勘違いして認識することで起こる問題ですね。

 

いろいろ見極めて、環境適応戦略を取ることが大事ですね。

 


たとえばの話。

 

貴方が勤めている会社の業績が良くなくて、月100時間の残業が常態で、体調不良になってしまったとします。業務量がとても多くて、部署内で業務サークルを作って、業務を圧縮する方策を立て、実務レベルではいくらか改善されていますが、それでも総残業時間の水準は高いまま。むしろ処理能力があがった分、仕事が増えている、というのがよくある話です。

 

こういうとき、たとえば、修行だと思って残業100時間に耐えれる体力づくりをする、というのが①の自身を変えるアプローチ。長時間労働に耐えれる頑丈な人材を採用するというのも亜種として含まれます。それから、もう限界だといって、さっと次の転職先を探してしまうのが②の環境を移動するアプローチ。そして、AIシステムを導入して業務を抜本的に変えましょう、というのが③の環境を変えるアプローチ。

 

①②③、どれも実行するには大変です。逆にいうと、こういう大変さをくぐり抜けた人が、「環境に適応して生き残る人」に相応しいんでしょうね。

 

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。
夏の暑さにアイスみたいに溶けているので、アリにたかられてしまいそう。

 

 

 

【リスクと生きる、死者と生きる】

 

ほぼ嗅覚で予約してみました。石戸諭さん著。

 

8月6日(広島)、9日(長崎)、そして8月15日(終戦)が過ぎてからの発売でタイミングが悪いような気もするけれど、きっと一過性のブームで終わらせたくないんだってことなんだと勝手に解釈している。

 

Amazon紹介文より)

「リスク論」からこぼれ落ちる生を探し求めて、東北、そしてチェルノブイリへ――。
若き記者による渾身のノンフィクション。

岸政彦さん、星野智幸さん、推薦!

「被災地」は存在しない。「被災者」も存在しない。 土地と人が存在するだけだ。
「それでも生きていこうとする人々」の物語が、胸を打つ。
(岸政彦)

ここには、あなたを含め、この本に書かれていない被災した人すべての物語が、ぎっしりと詰まっている。
その見えない言葉に目を凝らして、読んでほしい。
(星野智幸)

 

 

 

文学のポテンシャル

1.ツイッターで話題になった文学の意義

 

文学の意義とはなんでしょうか。

 

文学部で学ぶ意義とは、翻って言えば文学の意義ですが、それについて語ったつぶやきが先日ツイッターで流れてちょっとした話題になっていました。

 

理系学部の意義、法経済学部の意義はビジネスに直結、つまりは世の中の仕事に直結しているために語りやすいですが、文学部の意義というのは確かによくわかりません。世の中では直截に「どうせモラトリアムだろ?」と言ってしまうひともいます。

 

そのある学長が語ったツイッターでは、乱暴に要約してしまえば、「文学は人生で重大な決断をするときに役に立つ」と仰られています。

 

文学、特に古典は、時間の審判を経て残っているものです。こうしたものは脈々と受け継がれているだけあって、古人の叡智、人間の普遍が込められています。これらを学ぶことは、たしかに人生を生きていく上で役に立つでしょう。それが経済的成功に直結しないだけです。人生はお金の多寡だけで示せるものではないのです。

 

 

 

2.ものたりない

 

しかし、この回答が正だと思いつつも、物足りないなあ、とわたしが感じたのは事実です。

 

「だったらわざわざ大学で学ばなくても、自分で本を読めばいいじゃないか」というツッコミも妥当と思えます。まあ、本というのは一人で学べるよう設計されたメディアですから、まったくその通りなんですよね。

 

だから、文学という学問は、新たな展望を開かなければならないのではないでしょうか。

 

 

 

 

3.役に立つものは本来的にお金になるはず

 

そういうわけで提言を3つくらい思いついたのですが、あんまり書くとウザいのでひとつだけ。

 

 

つっこませてもらうと、人生の役にたつというなら、マネタイズできていないのはおかしくないですか? 確かに人生に役立つ場面があるのだから、文学をマネタイズできるビジネスモデルがあると思うんですよ。それを探すべきなのではないでしょうか。

 

(文学作品そのものを売る、というのはあまりにも使い古されたモデルなので、ここでは議論せずに置いておきましょう)

 

思うに、文学作品そのものだと文体も古いし、難解だし、スマホ情報が飛び交う今の時代だと、内容が濃すぎると思うんですよ。だから文学作品の内容を薄めて、作品のコアとなる普遍を分解して取り出してくれる「希釈者」がまず必要ではないかと。そのうえで、現代でも受けるコンテンツに料理し直して市場に出す。企業がそれをやるなら、「希釈・分解」と「現代的なコンテンツに再料理」する過程で文学の専門家が必要になるはずですよ。

 

たとえば、日本の恋愛小説の端緒である源氏物語は、言い換えれば女性の恋愛ポジショニングの参考書としても読めるはずなんですよ。例に引きやすいところであげると、花散里という女性は、美人ぞろいのチーム光源氏のなかにあって美人ではなかった。しかし癒し系と言える性格で光源氏の心を最後まで捉え続けていた。この花散里みたいになりたいという人というのが一定数いるとしたら、その指南役やセミナー、サロンのような事ができるかも知れません。商業ブログとも親和性があるかも知れませんね。

 

繰り返しになりますが、役に立つものは本来的にお金になるはずなのです。それができないのは、あえて言い切りますが、やり方を編み出せていないだけなのです。現代のコンテンツ時代には、文学は親和性が高いはず。

 

 

 

 

 

4.高いポテンシャルを活かせないのはもったいない

 

 

人間がコミュニティを起こす場合。石器を振り回すような人たちが、まず身振り手振りから始まり、農業の習得と同時期に共同体のなかで通じる言葉を発生させ、そして文字が発生することで、時代や空間を超えた複雑なコミュニケーションを可能にします。

 

そしてカタコトのコミュニケーションがだんだん語彙と表現が増えて長文になり、だんだんと詳細なニュアンスや事実の表現を可能にしてくれます。そしてそれが一定レベルになると、文学が発生してきます。

 

各国の文学を見れば、民族の思考特性と文化のレベルを示してくれると言えます。逆に言えば、代表的な文学を持たない国は、独自の文化の変わりに周辺国の強い影響を受けていると推定できるということです。もし日本に源氏物語が生まれなければ、日本の言語文化のレベルはその程度で、日本は独自性の無い、どこかの属国として存在していたかも知れませんね。

 

文学は、独自文化の形成の過程でとても重要な役割を担っています。その文脈でいうと、文学のポテンシャルはとても高い。一般的に、ポテンシャルを活かし切れないのは、使う側の人間に課題があります。課題の置き場を間違えると、導かれる答えはどうしても的がずれてきますよね。

 

 

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

時代に適応するというと大げさだけど、雨が降ったら傘をさしますよね。そんなものだと思います。

 

知覚できない変化で、行動を変えるのは無理だけど。

1.ファミレスにて

 

ファミレスに行ったら、高校生ぐらいの女の子が4人、4人席に集まっていたんですよ。通路を挟んで離れた席に自分は座ったんですけど、そう混んでもいなかったし、女の子たちも声をひそめる気配がなかったので、その気もないのに内容が聞こえてきます。どうも、文化祭かなにかで、ステージ企画をやるので、その打ち合わせのようです。ときおり低く歌いながら手でフリをやっています。

 

いまはAKBのような手作りアイドル時代だからか、ステージ上の振り付けや移動、人の出番にいたるまで全部生徒の手作りなんですね。フリの良し悪しやメンバーの移動を直線じゃなくて円にしようかどうかとか議論していました。まあ、傍で聞いていても何が良くて何が悪いのかまったくわかりません。

 

 

 

 

2.ところでマスの実験

 

ところで話はまったく変わるのですが、「マスの実験」というのをご存知でしょうか。マスは魚のマスです。

 

上から見て長方形の水槽。この縁に沿ってマスが気持ちよく四角を描いて泳いでいるところに、対角線に沿ってガラス板をいれます。そうなると当然マスも水槽の縁にそって四角く移動できませんから、対角線のガラス板にそって、三角を描くように回遊するようになります。そうなってからガラス板を取り出すと、マスはどう回遊するでしょうか。皆さんご存知だと思いますが、マスは再び水槽にそって四角く泳ぐのではなく、存在しなくなったガラス板にそって、三角に泳ぎ続けるのです。

 

このマスと同じように、人間も自分で知らず知らずのうちに限界を設定してしまって、その限界が取り払われたあとも、その限界から飛び出せなくなる。人間はマスになるのではなく、人間らしく外に飛び出すべきだ。巷ではこの実験はそういうふうに語られます。

 

しかし、考えてみると、随分と酷な話です。

 

マスは魚に過ぎませんから、ガラスという透明な物質の存在を知りません。ゆえにマスは「理由はわからないが、経験によって、ここより先には行けない=世界とはそういうものだ」という高度な学習によって、三角に泳ぐようになっているわけです。ある意味で、三角に泳ぐマスは訓練されたマス、環境に適応したマスだと言えます。しかもその環境の変化(対角線上のガラス板)は、マスにとって知覚できないのです。人間に例えれば、人間に4次元を知覚させようとするようなものです。うーん、ハードモード。

 

 

 

 

3.知覚できない変化で、行動を変えるのは無理だけど。

 

知覚できない条件の変化を、無理に知覚してまで、自分の世界を広げる必要はないんじゃないの? と考えました。

 

だって自分の能力や時間のリソースは限られているわけだし。知覚できないものに対してトライを繰り返すのは効率が悪すぎる。与えられた条件の中で、良い結果を出すことにリソースを配分したほうが、よほど合理的です。

 

けれど、自分が知らず知らずのうちに設定している限界があって、その向こう側には自分が知らない世界がある、ということは知っていたほうがいい気がします。

 

一番最初の話に戻るなら、あの女の子たちと一緒に何かやることは一生ないでしょうけれど、でもイマドキの女子は自分たちでステージ企画を体験する機会があって、能力もある。そういう草の根活動的なものが存在している。そういうことを知っているのは有益な気がします。

 

つまり、身近には自分の知らない世界があり、自分はその世界を選ばずに生きているのだということ。知らない世界は何かをやろうとするとき、決断するときに不確定要素になりえますからね。自分の知らない世界があることを知っているだけで、思考は随分と正確になり、他者とわかりあえるのでしょうね。

 

 

 

そうか、これがいわゆる「バカの壁養老孟司さん)」なんですね。自分が知らないことを知ること、知らないことを無いものと扱わないで知ろうと試みなければいけないこと。忘れていたことを思い出した日でした。

 

 

 

 

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

長い文章もたまには書いてみました。