読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

日経平均2万円超えた

今日、日経平均が2万円を超えていました。

 

証拠。Yahooより。

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グラフのレンジを広げてみましょう。2015年8月ぶりの2万円超えみたいです。お久しぶりです。

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株価があがったのはミサイル危機が一段落したと思われたからかも知れませんね。つい最近までミサイルミサイルと報道で騒がれていましたけれど、最近はちょっと落ち着いてきた印象です。報道も日常ネタが多くなり、徐々に平和を取り戻してきた感じを強くしています。良い経済の一番のインフラは、やはり「平和」ですからね。

 

このまま順調に行ってくれることを祈るばかりです。

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。

記録の意味もこめてこの記事を投稿しています。

 

 

 

 

 

 

日本で一番簡単にビットコインが買える取引所 coincheck bitcoin

世の中で大事なことは自然からも学ぶことができる

10年も超えて働いているといろいろと色気が出てきて、投資なんか始めちゃうわけです。投資商品を見ていると、ハイリターンと言われているものはたいがいハイリスクで釣り合っていて、世の中うまいことできているなあと思います。たとえて言えば元本が絶対保証される預金は利息はつかないですけれど、元本が保証されない、ゼロになっても文句が言えないような投資信託なんかはやっぱりリスクが高い分、成功した場合のリターンも高めに設定されていますねえ。このリスクとリターンのバランスの見極めをきっちりこなして利益を生み出すのが投資家という生き物なんでしょうけれど、素人同然の自分はなかなかうまくいかずハンカチをちぎれんばかりに噛んで悔しさをまぎらわす日々だったりします。

 

で、リスクとリターンは釣り合うという法則は、世知辛い人間社会だけでなく自然社会でも見られます。ファーストペンギンという言葉を聞かれたことがあるでしょうか。ペンギンは群れで餌を取ります。群れの規模は数百匹くらいでしょうか。しかし餌を取るペンギンたちはすぐに海には飛び込まず、まるで人間のように他のペンギンの顔色を見て、別の仲間が海に飛び込むのを待つのだそうです。というのも、海の中にひょっとしたらサメなどの天敵がいて、ペンギンたちが飛び込んだとたんに食べられてしまうかもしれないからです。餌を取りにいっているのに、逆にペンギンたちが餌になってしまうという笑えない事態です。ペンギンたちにしてみれば、できれば別の仲間が飛び込んだ後、海の安全を確認してから飛び込みたい……。こう思うのは人間だけではないようで、ペンギンたちも自然の本能で見苦しく飛び込むのを譲りあいます。

 

そんななかで真っ先に海に飛び込み、群れの安全を確認するのがファーストペンギンです。一番に飛び込んだペンギンには命の危険がありますが、それに相応しいリターンがあります。それは、他の群れの仲間が入る前の海で、食料である魚をよりたくさん、確実に食べることができるのです。自然界でたくさん食べることはより強くなることと同義です。群れの中で強くなれば、より良いつがいができ、より良い遺伝子を残すことができるわけです。危険を冒して一番に海に飛び込む勇気と献身は、群れのリーダーに相応しい態度でもあります。

 

リスクとリターンは釣り合うというルール。等価交換と言い換えてもいいかも知れないこのルールは、自然の世界にも見られます。とすれば自然界のルールは人間世界に応用できるものだと言えます。生き物たちが生存を争う自然界のルールが人間社会にも適用できるのはある意味当然かも知れません。動物と比べ物にならない知性を持つとはいえ、人間も生き物ですからね。世の中で大事なことは自然からも学ぶことができます。より広く言えば、学ぶ気があれば、視点を変えて物事を見ることで、ありとあらゆることからでも教訓を抽出することができるもの。視点の豊かさはずっと育てていきたいものですよね。

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。

南極のペンギンは、互いに身を寄せ合って塊をつくり、寒さをしのぐそうですよ。

 

 

 

 

 

みみずくは黄昏に飛びたつ(騎士団長殺し考察)

先月に発売された、芥川賞作家の川上未映子さんによる村上春樹さんへのインタビュー本「みみずくは黄昏に飛びたつ」。インタビュー期間は初回が2015年。そこからしばらく期間が空き、2017年の1月下旬から2月にかけて3回立て続けのインタビュー。

 

発売の時期からし村上春樹さんの最新作「騎士団長殺し」の話題がメインかと思い購入しましたが、「風の歌」「ノルウェイの森」「ねじまき鳥」やら話は村上春樹さんの著作全般に渡り、作家同士の対話ということもあって、創作論に深く切り込む内容になっています。作家同士の創作論をテーマにしたインタビューはすごく面白いというのが感想でした。切り込むインタビュアーも作家(芥川賞)、受けるのも作家(大作家)。どこまでも深読みできそうなのがいいですよね。

 

いきなり結論から入ってしまいましたが、それはそれとして。

川上未映子さんは村上春樹さんのファンだということでしたが、その看板に偽りなし。書いた村上春樹さんご本人が忘れているような人物名や台詞、エピソードがすらすら出てきて、なかなか楽しめました。矢継ぎ早に質問される村上春樹さんのたじたじぶりが行間からにじみでていて、変な意味で手に汗にぎりました。しかしそこは大作家の貫禄、原則論でどっしりと質問をさばいてみせてくれました。

この本はもう真剣組手ですね。

 

村上春樹さんの創作論は独特で、「小説はボイスありき」「物語を作るとはマテリアルをくぐらせる作業」というような、比喩的でわかりにくいけれども、物事の本質をついている話があります。

当然ですが、超一流の小説書きのやり方を真似をしたところで、超一流の小説が書けるわけではありません。それは普通の人がイチローの真似をしても、イチローのように200本安打を達成できないくらい自明なことなのですが、

だからといって意味のないことだとも思いません。一流の人がやっていることというのはどこか世界の真理をついた普遍があるものだと考えています。だから、たとえ小説を書かなくても、そのやり方や、背景となる心構えみたいなものを、人生のどこかで応用することもできるでしょう。

 

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ところで。インタビュー中、海外でも出版されている村上春樹さんの作品は中編ほど評判が悪いという話がありまして。これが意外でショックだったんですよね。

というのも「スプートニクの恋人」とか「多崎つくる」とか、わたしが村上作品で一番好きなのは中編小説 なんです。

つくづく自分は天邪鬼だなあと認識を上書きしました。

でもせめて、このブログでは、村上春樹は中編が良い!と強く主張しておきたいと思います。

好きなシリーズが出版されなくなるのは悲しいですからね。

特に「スプートニクの恋人」がわたしは好きです。

中編、出版されたら必ず買います。

言うだけじゃありません。

ぜひお願いします!

 

 

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「みみずく(略)」のなかで、新作「騎士団長殺し」に関わる内容は、20パーセントくらいの量でしたね。本の中でそれでも結構重要なことを村上春樹さんは語ってくれています。そのなかで2つほど気になったところがありました。

  

 まず、「騎士団長殺し」の続編、第三部があるかどうかという点。

これは騎士団長殺しを読んだ人たちの間で結構重要なテーマとしてネット界隈で議論されていて、わたしは第二部では終わっていない、つまり続編は出る!と予想していました。

これは読んだことのある人じゃないとわからないと思うのですが、

騎士団長殺し」のプロローグで「顔の無い男」が出てきて肖像画家の主人公に顔を描くことを要求する。その伏線が回収されないままで、第二部が、つまり現在出版されているところまでが、終わってしまっていることを根拠にしていました。

簡単に言うと、プロローグの伏線回収が終わってないから、まだ続編は出るんだ!論です。

しかし、ネットで他の人の感想を見る限り、残念ながら「第三部はもう無い、第二部までで完結=続編無し」派 の方が優勢でした。

しかしそれは所詮下馬評。外野の野次と一緒なんですよね。

一番肝心なのは作者が書く気があるかどうか・・・。ご本人に会えるならば聞いてみたい! と思っていたのですが、今回のみみずくインタビューで村上春樹さんが語ってくれたのが上の引用です。

 

 (村上)「顔のない男」の肖像を描くことができれば、ペンギンのお守りは返ってくるだろうけれど、むずかしいかもしれない。でも、それは彼の人生の大きな課題になるかもしれません。そしてその課題が彼を変えていくことになるかもしれない。物語は続くんです。そこにはポストヒストリーがあります。僕がそれを書くか書かないかは別にして。

 

ひらたく言い直せば、続きはあるけど、書くか書かないかはわかんねぇよということでしょう。さすが大御所・・・! すごくフリーダムです。まあ、一部二部が売れて商業的に成功すれば続きがあるということかも知れません。どのみち第三部があるにしても年単位で待たされそうですから、期待しないで待っているのが賢い選択なのだということでしょうか。

 

 

そして2つめ。騎士団長殺し」に出てくる性的な描写についてです。

ご存知の方も多いかと思うのですが、簡単に説明すると、村上作品には結構脈絡なく性的シーンが多くて、エロ小説だなんて言われるくらいです。(実際にはそこまで表現は多くないと思う)

まあ「騎士団長殺し」ではそういう描写がちゃんとあって、さらに登場人物のひとり、中学生の秋川まりえにすら、そっち系といいますか、二次成長期の胸に関して描写が厚く割かれていました。

昨今のご時世からきな臭いテーマですが、そういうところに、川上未映子さんがずばっと切り込んでくれています。

 

(川上) つまり、女の人が性的な役割を全うしていくだけの存在になってしまうことが多いということなんです。物語とか、男性とか井戸とか、そういったものに対しては、ものすごくおしみなく注がれている想像力が、女の人との関係においては発揮されていない。女の人は、女の人自体として存在できない。女性が主人公でも、あるいは脇役でも、いわゆる主体性を持ったうえで自己実現をするみたいな話の展開もできると思うのですが、いつも女性は男性である主人公の犠牲のようになってしまう傾向がある。なぜいつも村上さんの小説の中では、女性はそのような役割が多いんだろうかと。
(村上) なるほど、うん。
(川上)それについては、どう思われますか。

 

性的描写に関する質問への、村上春樹さんの第一声は「なるほど、うん」。

 

川上未映子さんは村上春樹の大ファンですし、頭の回転も早く知的なので、基本的に和やかに順調にインタビューは進んでいきます。しかし、彼女は自称フェミニストであるためか、こういう話題のときの舌鋒の勢いというか、言葉の鋭角がすごくて、脇で見物しているだけの観客でも刃物を突きつけられている気分になりました。文章を読んでいるだけなのに、さすが芥川賞作家といったところでしょうか。

 

もちろんこのあとに回答編が続き、村上春樹さんは淡々と場を収めます。少し話をずらして回答した気はしますが、「主人公を性的な対象とみなしていないからこそ逆に性的な話ができる」とか、結局村上春樹さん本人は「物語に寄り添って」書いているだけ、ということで、性的なもの、女性に対して、特段の意志や意図は無いそうです。(よかった! 健全!)

 

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というわけで、本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。 

 

作家同士の対話ということで、おざなりな話やこじつけ話もなく、なかなか骨太なインタビュー本でした。少なくともただの便乗本の類ではありません。村上春樹さんのファンの方は読んでおいて損は無いです。

 

 

 

みみずくは黄昏に飛びたつ

 

 

ご参考。

taftaftaf.hatenablog.com

 

 

川上未映子さん 第138回芥川賞受賞 『乳と卵(ちちとらん)』

も合わせてどうぞ。

 

コマツのコムトラックスがすごかった

コマツというメーカーがあります。売上2兆円に迫る世界2位の建設機械メーカーです。建設機械といって、このブログを読む方がどれだけイメージがつかめるかというのはありますが、例えばパワーショベルとかブルトーザーとか工事現場で使う機械ですね。

 

で、コマツの建設機械には特殊なシステムが標準装備されているのだそうです。GPS機能がつき、またエンジンやポンプ部にセンサーをつけることで機械が稼働しているかどうかがわかります。このシステムは「コムトラックス」というそうです。

 

2001年から標準装備化を始め、2011年で6万台を超える建設機械にこのコムトラックスというものが搭載されているようです。

 

で、このコムトラックスで実際どういうことができるのでしょうか。

 

まず、GPS機能がついているので、売った建設機械がどこにあるのかわかります。売り先は全世界ですが、GPSも全世界をカバーしているので、世界のどこにその機械があるかがすぐにわかります。どこにあるかがわかると何がいいか。変な話ですが、盗難があってもすぐにわかるのです。建設機械は辺鄙な場所にも派遣されるので、盗難対策に万全な場所ばかりではありませんから、これは便利です。実際、盗難する方もコマツの機械はコムトラックスがついているので、敬遠して盗難対象にしないそうです。なので、盗難保険の掛け金も安くなっているそうです。それから、金融機関がお金を貸す時に、担保にコムトラックス付きの機械を指定したりするそうです。機械の居場所がすぐにわかるので、担保として優秀なんですね。

 

次に、コムトラックスを積んでいると建設機械の稼働状況がわかるので、メンテがしやすいですね。自家用車をお持ちの方はイメージしやすいと思いますが、新車を買うと6ヶ月や1年経過すると点検に来ませんかという案内がディーラーから来ます。同じように、この機械はこれだけ動いたからそろそろ点検しませんか、という話ができるわけです。また、機械の稼働状況の情報を累積すると、どの地域が活発に建設活動が行われているかわかります。この建設活動は景気とほぼイコールですから、景気の良し悪し、行き先がわかるようになるんですね。

 

最後に、このコムトラックスは、非常時には遠隔操作でエンジンを止めることもできます。これにより、債権回収に役立っているそうです。もう新興国には当てはまらないかも知れませんが中国市場は非常に大きなマーケットですけど、債権回収が難しいマーケットでもあります。手前味噌ですが、中国に自社製品を売ったときに支払いを延ばされた経験が自分にもあります(何の製品かは身バレしたくないので書けませんが)。けれどコムトラックスのように遠隔操作できるシステムがあれば、最後の切り札を売り手側が持つということですから、支払い交渉は円滑に進めることができるでしょう。実際、コマツは中国市場での債権回収はうまくいっているようです。

 

とまあ、すごいシステムですね。コムトラックスの稼働状況は機械のユーザーも見ることができるので、稼働率見える化もできているのでしょう。

 

 

今、インダストリー4.0ですとか、IoT (Internet of things) のように、工程やビジネスフローの上流から下流をの情報をIT技術を使って結びつけ、生産を徹底的に効率化しようとする動きがあります。コンセプトが打ち上げられてから、具体的な活動が少なく、最近やや下火になっている感はありますけれど、止められない社会の大きな流れです。今回ご紹介しているコムトラックスは、そのIoT活動の成功例として捉えると、すごく有意義なんですよね。

 

こんなにいいシステム、自分の生活にも何か応用できないかなぁ……考え中。思いついたら書きますね。

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

 

 

 

ダントツ経営―コマツが目指す「日本国籍グローバル企業」

「ロボットには心がない!」とか言われると気になってしまう

「ロボットには心がない!」ってマンガの主人公がよくドヤ顔で言ったりしてるのが気になるタイプです。

 

ルンバなんかを見てると、いつもちょこちょこ床を掃除してくれて、なんかちょっと可愛いやつだから心を持って欲しいとか思うのかも知れない(ルンバもっていないので想像ですけれど)。

 

でもそもそも、ロボットって便利な道具の延長線上にあるものですよね? って思うんですよ。ものすごく効率よく鉄の部品を削り出したり、人体に有害な化学物質が揮発する空間で吹付け塗装したり、鉱山とか人がちょっと危険で入っていけないところにダイナマイトを設置してきたりだとか、チェスやったりとか、そういうものなんですよね。

 

ロボットは人間にできない機能を求められて作ったもので、そもそも心が必要ないですよね。「ココロ」、開発するときに要求仕様書の項目に入っていませんよね。それなのに後付けで心を求めるのって、何か筋が違っているのではないでしょうか。心と心を通じ合わせることは、ロボットよりもむしろ人間のお仕事じゃないですか。そうじゃないです?

 

持っている者が差し出し、無い者が受け取る。そして受け取った者は対価として何かを提供する。基本的なこの世界のルールですよね。心を持っていないし、心を持っていなくてもいいロボットに心を要求するのは、かなりズレているんじゃないでしょうかね。

 

当たり前のツッコミが入っていないとどうにもすわりが悪いというか、気持ちが悪いんですよねぇ。

 

今日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。

ロボットに心を求めることは、魚に足を求めるようなものですね。網タイツを履かせるところまでいけば、面白いです。

 

 

 

欧米の大学生たちが教養としてもっているもの

少数の正義の味方たちが、大兵力で押し寄せる大帝国の悪いヤツらをばったばったとなぎたおす・・・少年マンガの王道展開です。こんなストーリーのマンガや映画、ひとつやふたつ、皆さんの頭の中にぱっと例が浮かぶのではないでしょうか。

 

この胸熱の王道ストーリー展開は、実は歴史にいくつか底本があります。物語は根拠のない妄想から生まれるのではなく、歴史的な事実がまずあり、それを脚色しているから面白いのです。リアリティが無い物語はつまらないものですからね。

 

今回ご紹介する底本…というか出来事は、紀元前5世紀にあった「ペルシア戦役」です。塩野七生女史 <ギリシア人の物語I 民主政のはじまり から内容を紹介します。中学高校の世界史のおさらいプラスアルファの内容です。紀元前5世紀、日本でいうと弥生時代の中頃ですが、当時今で言うイランからトルコ、エジプトまでを領有していた大帝国、アケメネス朝ペルシア。この帝国が、都市国家群に過ぎなかったギリシアに兵を向けました。

 

ペルシア戦役は、第一次と第二次に別れています。第一次は、当時勢力拡大を続けていた大帝国のペルシアが、とりあえずという感じで派遣してきた遠征軍を、ギリシア連合ーー強硬派と恭順派が入り乱れて上へ下への大騒ぎをしながらも軍を繰り出したーーが、会戦でペルシア遠征軍に勝利し決着します。第一次ではペルシアもギリシアをそう重要視していなかったので、派遣されてきた兵力は質も量もほどほどで、ペルシアとギリシアでさほどの戦力差はありませんでした。ちなみに、この会戦がスポーツ史に名高いマラトンの会戦です。ギリシア中の耳目を集めた戦争の結果をいちはやく伝えようと使者が長距離を駈け通して、ギリシア連合の勝利を伝えたわけですね。マラソンの起源となっている出来事です。

 

そして、雪辱に燃えるペルシアが、代替わりした若い王が自ら乗り込んで来たのが第二次ペルシア戦役、本記事のクライマックスです。ペルシア側は、資料により180万人とも言われますが、上述の塩野七生女史の本では、様々な兵站資料などから20万人の説を採用しています。迎え撃つギリシア連合は、各都市からかきあつめて2万人程度。2万人対20万人の戦いです。

 

二次戦役では、10倍の敵に攻め入られてしまったギリシア。同胞都市国家スパルタ300名が玉砕してペルシア軍20万を足止めするという劇的な出来事もありますが、史上初となる大海戦を制し、圧倒的劣勢にあったギリシア人たちが見事勝利を収めます。この戦役ではテミストクレスという極めて先見性に富んだアテネ人が、政治に軍事に大車輪し、ペルシアの大軍を追い返すことに大きく貢献しました。(ちなみにこのテミストクレスは奇妙な運命を持った人物で、政治的・実際的冒険の果てにペルシア国のある地方の太守で生涯を終えることになりますが、興味のある諸氏は塩野七生女史の本を実際に読まれると良いと思います。)
 

 

さて、こういう歴史は、西洋文明の中では必須の教養として受け継がれてきています。当時のアテネ人のヘロドトスが書いた、ペルシア戦役の一級的な資料である「歴史」は、世界的な普遍性を持つ古典ですし、大学の教養書として受け継がれています。

 

 

ところで、佐々木紀彦さんの書いた<日本3.0 2020年の人生戦略>で、ハーバード大学を一例に引いて、欧米の大学の教養学科の要求レベルの高さ、ひいては欧米エリートの教養力を語ってくれています。

 

ハーバード大学の教養強化プログラムにおける教養の位置づけを説き)

その主たるメッセージは、「クリティカルに考えることを学び、倫理的に行動することを学び、エンゲージすることを学ぶ。

 

カタカナが多くてわかりにくいのですが、僕が理解した範囲で言い換えれば、教養を学ぶ意義とはーー「物事の勘どころを抑える思考法を学び、倫理的に正しく行動することを学び、社会現場で実践し、その行動を習慣づけることを学ぶ」ーーというところでしょうか。

 

そして、次の4つを一般教養の目的としてあげています。
①市民として社会に参画する準備をさせる。
②伝統的な芸術、思想、価値と、現代を生きる自分とのつながりを理解させる。
③変化に対して批判的かつ建設的に対応できる準備をさせる。
④自らの言動を倫理的な側面から理解するための力を育む。

 

今回のペルシア戦役、歴史の話は、②の伝統的な云々の話です。ペルシア戦役を描いたヘロドトスの古典「歴史」もカリキュラムの教科書に入れられているみたいです。そして、文献からの学びを通して、どんなことを求められているのか。それを説明したのが下の引用です。欧米の大学生たちは、きちんと勉強していて偉いなあ。

 

学生たちは、文化的な対立において、何が問題になるのかを理解しなければならない。たとえば、自国や他国の芸術、宗教、思想の歴史を学ぶことによって、どのように各文化のアイデンティティが形成されたかを知り、自らの伝統を他の伝統との関連の中で捉えることができるようになる。

 

誤解をおそれずに平たく言ってしまえば、ご先祖様がやってきたことと、自分現在の自分とをつなげる作業が、歴史を知るという作業です。ついでにお隣さんのご先祖がやってきたことと比較することで、お隣さんと自分たちの違いというものを理解することにつながるということです。

 

誤解の無いように、僕の考えを補足しておきます。「違いを知る」、「アイデンティティを知る」というのは、他の文化の人たちと切り離して区別するという意味では決してありません。ただお互いを理解するための前提として、お互いの距離感を知っておかなければならない、ということです。その距離を縮めるのか、それとも離してしまうのかは各人の判断と思想に委ねられているのだと考えます。しかし、どう行動するにせよ、まずは、他の文化それぞれの距離感を正確に理解しておかなければならない。そのために伝統=歴史とそれぞれの違いを学ぶのだということです。

 

 

それでは、話を戻してみましょう。先述のペルシア戦役を教養課程で詳しく学ぶ西欧の大学生は、この出来事を通して何を学ぶのか。少数の味方で、大兵力で押し寄せる大帝国のヤツらをなぎたおす王道展開に燃える…だけではないと思います。実際のところはカリキュラムを履修してみなければわかりませんが、塩野七生女史の、ペルシア戦役の章の結びの一節を、ひとつの答えにできそうな気がしています。

 

しかし、第一次・第二次とつづいたペルシア戦役の中でも特に第二次の二年間は、これ以降のギリシア人の進む方向を、明確に住めすことにも役立ったのではないか。言い換えれば、指針を与えた、ということである。・・・中略・・・この創造が的を突いているとすれば、今につづくヨーロッパは、東方とのちがいがはっきりと示されたという意味で、ペルシア戦役、それも第二次の二年間、を機に生まれた、と言えるのではないかと思う。
 勝負派、「量」ではなく、「活用」で決まると示したことによって。

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

 

戦いは量だけでは決まらない。あるいは、量では圧倒的に不利であっても、やり方さえ正しければ、勝つチャンスはあるーー。そういう精神性がヨーロッパの文化では脈々と受け継がれてきたと確信できる。なぜなら、昔の知識人も、今の大学生も、同じテクストを読んでいるわけだから。……そんなことを、欧米の大学生は歴史のテキストを通して学んでいるのかも。

 

現代に生きる人も過去のご先祖も、同じテキストを通して歴史を学ぶというのは、文化的土壌となる精神性や伝統を受け継いでいくのに、もっとも効果的な手段なのかも知れません。そして、その作業こそが伝統を作っているのかも……。いえ、きっと、そうなのだと思います。

 

 

 

 

咲かねば散るもないけれど

寒の戻りというほどでもないのでしょうけれど、今日はなんだかとても寒い日でした。

 

聞いた話では前日よりも10度も気温が低くて、これだけでも嫌なのにしとしとと陰気な大粒の雨まで降って、陽光も届かず暗くて、枯れ林みたいに寒々しい。近所の畑に咲く黄色いアブラナはまっすぐ立ってなんだか強そうでしたけれど、逆に言えばアクセントになるのはそれぐらいで、背景はまったく水墨画みたいに枯れた濃灰色でした。

 

もしこの時期に桜が咲いていたら、きっと多くの花を散らしていたのでしょうけれど、幸か不幸か僕の住んでいるあたりは桜前線がまだやってきておらず、咲いて早々に桜が散るなんて物悲しいことはありませんでした。

 

けれど、春は気候が不安定で、”春の嵐”なんて言葉がある通り、強い風やら雨やらが吹き付けて、開いたばかりの桜の花をあっさりと散らしてしまうことがありますよね。桜も咲かねば散ることもないですけれど、そういうわけにもいきません。うまく咲いて終わるにはどうしたらいいか。自分ならどうするか。そんなことを考えてみたんですね。(我ながらのんびりとしたことだと思いますけれど。)

 

咲く時期をずらしたらどうか。でも花が開くには気温差が必要ですから、時期が遅すぎてもうまく花が開かなそうです。せっかく長い冬を超えてきたのだから大事に咲きたいと思っても、けれどどっこい相手は天気ですから、早く咲いても遅く咲いても嵐や雨に吹き散らされる危険はあるわけです。こうすれば絶対に安全なんて甘い手はない。思い浮かぶのは塩っ辛いことばかり、どうにもうまい考えが浮かばなくて、さて本家の桜はどうしているだろうと考えてみたら、これは実に簡単なことでしたね。

 

答えは、『たくさん咲けば』いいんです。ひとつの桜の木で、早い花も遅い花も咲かせてやる。そうしたら、どれかがうまくお天気のご機嫌の良い時期にあたって、長持ちするでしょう。桜は動くことができません。それでいて気候というコントロール不能なものに立ち向かわなければならない。そういうときは手数で勝負すればいいんだ、ということです。

 

人間の身に振り返ってみても、長い人生、良いときも悪いときもあります。良いばかりの天気も悪いばかりの天気も続かないように、人間も良いときばかり続かないし、悪いときばかりも続きません。良いときと悪いときが交互に波のようにやってくる。そんなうねる見えない波を乗り越えるには、たくさんの花を咲かせなければいけないんだなぁ。

 

 

本日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。

自然から学べることっていっぱいありますよね、その気になりさえすれば。