読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

「あいつはああいう奴だから」って言うじゃない?

「あいつはああいう奴だから」ってときどき聞きますけれど、この言葉は諦めていると同時に、話題になっているその人を、受け入れる言葉でもあるんですよね。受け入れるときにちょっと評価をさげているけれど、見方を変えれば、相手を等身大のまま受け入れているってことなんですよね。だから、僕の好きな言葉だし、こういうことを言う人に好感を持ちます。

 

同じような話で、「お前はみんなと違う」という言葉が出るときがあります。暗に「みんなと同じになれ、さもなければ出て行け」という意味で言葉を使う人がいます。日本得意の同調圧力の強い集団では多いですね。一方で、褒め言葉として、「お前はみんなと違う」という人がいます。そういうときは、その人の個性と才能を受け入れてくれる言葉です。おんなじ言葉でも、言う人の思想の背景でぜんぜん違うんです。

 

どうせなら、等身大に人間を受け入れる集団に身を置きたいし、自分もそうありたいと、帰り道に電車に乗りながら思いました。他人は自分では思いつかないことをするから面白い。自分と同じような発想の人たちとつながっていてはつまらない。将棋だって、同じ動きの駒だけじゃ、ゲームが成り立ちませんからね?

 

 

今日も当ブログにお越しいただきありがとうございます。

できれば居心地の良い場所に身をおきたいですよね。

 

 

 

「ほぼ日」上場 糸井重里さんとシェアするもの

株式取引は美人投票と同じだと言われます。

 

これは結構皮肉な意味合いがあって、取引参加者は自分が美人だと思う人、に投票するんじゃないそうです。周囲をよく見て、皆が美人だと思いそうな人、つまり票が集まりやすそうな人に投票するんだそうです。株式取引では、票が集まれば集まるほど、値が高くなり自分がトクをするわけですから、まさに経済的で合理的な行動というわけです。

 


糸井重里さんの「ほぼ日」が、3月16日、ジャスダック証券取引所に上場しました。ものすごい人気で、初日は「ほぼ日株」の値段がつかなかったということです。すごいですよね。

 

「ほぼ日」はなんの会社なのか、僕は正直よくわかっていません。わかっているのは、超が付くほどの有名コピーライターの糸井重里さんが、乗組員と呼ばれる社員を集めて、イベントや調査を通して何か面白そうなことを探している、ということです。活動はこれも有名な「ほぼ日刊イトイ新聞(http://www.1101.com/home.html)」で見ることができる。けれど、サイトを見て何をやっているかはわかりますが、どうやって儲けを出しているのかまったく推測できません。わかりやすい「儲ける事業」は、物販企画です。といっても、従業員が養えるほど売上があるのか疑問な企画も多いです。お値段もだいたい良心的で、損益分岐点も高そう。でも物販企画のひとつ「ほぼ日手帳」は人気があるのはわかります(毎年リピート販売しているから。少なくとも赤字企画じゃないことは推察できる)。じゃあ「ほぼ日」が文房具屋さんなのかと言われると、もちろん違う。

 

とらえどころのない会社、どれほど株主に配当をくれるかわからない会社ですが、新規上場時の人気は絶大。なぜでしょう。

 

ところで、インターネットの登場でコンテンツビジネスはがらりと変わりました。たとえば月額を支払うことでマンガが読み放題になったり、CDを買わなくても音楽聴き放題のサービスがあります。消費者は、これまでマンガや音楽それ自体を所有するためにお金を払っていました。しかし、今の消費者は、大量のマンガや音楽が音楽が蓄積されているデーターベースへの「アクセス権」にお金を払っています。何が言いたいのかといえば、僕たちは無意識のうちに、何のためにお金を払うかが変わっています。価値観が変わってしまっていると言ってもいいでしょう。その変化はゆっくりと行われているので、自分では気がつかないかも知れない。売る側も、できるだけ旧来の商慣習に合わせてサービスを売ろうとしている。でも、新しい技術が登場したのに、新しい考え方が発生しないということは無いのでしょう。

 

無限のコピーが可能で、受け手が作り手に容易に入れ替わることのできるインターネットの世界で、無料のコンテンツが増えました。音楽・文章・イラスト…。アマチュアでもレベルが高いものもありますし、一部のプロ作品も無料で視聴することができたりします。コンテンツの価値は下落しました。

 

しかし、一方で、この動きにはきちんと反動があります。一部のファンは、支持するクリエイターのためにきちんとお金を支払いたいと考えたのです。あるクリエイターを支持する。その支持をかたちにするために、「お金」を投じ、クリエイターをサポートする。いわゆるパトロンみたいなものですが、裕福な資産家でなくても、あるいは熱狂的なファンでなくても、割と気軽に、クリエイターへの支援、いえもっと気軽に「応援」という形で、お金を支払いたい人が発生しています。(僕もそういう人種です)

 

ケヴィン・ケリーさんは 〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則でこんなことを言っています。

 

熱心な視聴者やファンは心の中ではクリエーターにお金を払いたいと思っている。ファンはアーティストやミュージシャン、作家、役者などに、感謝の印をもって報いたいと思っている。そうすることで、自分が高く評価する人々つながることができるからだ。…中略…アーティストがファンに無料のコピーの対価として好きな金額を払ってもらう投げ銭制の実験が、そこかしこで始まっている。その方式は基本的に機能している。これこそ、支援者の力を典型的に表すものだ。感謝を示すファンとアーティストの間に流れるとらえどころのない結び付きは、確実に価値がある。


思うのですが、「ほぼ日」の株を購入したひとは、きっと「糸井さん」か「ほぼ日」のファンだったんじゃないのかなあ。「ほぼ日」の株を買って、儲けようなんて考えていない。より儲けるためにお金を払う、そういう資本主義的な発想はしない人が、「ほぼ日」の株を買った人に混じっているんじゃないでしょうか。例えていうなら、自分が美人だと思ったら素直にそのまま投票できる人が。

 

糸井さんは、インターネット的 (PHP新書)という本でインターネットについて論じています。底本の発行は2001年なのに、2017年の今に読んでも全然古びていない。この本で糸井さんは「リンク・フラット・シェア」がインターネット的なものの特徴だと喝破しています。株を買ったひとたちにとって、「ほぼ日」株を買うことは、糸井さんと『何か』をシェアすることだと考えたんじゃないかなぁ。

 


今日も当ブログにお越しいただき、ありがとうございました。

 

 

自分が死んだらKindleのライブラリはどうなるのか?

僕はいわゆる電子書籍派でして。頻繁に電子書籍を購入してはアイフォンのKindleアプリで空き時間に読書を楽しんでます。たしか2013年夏からKindleを使い始めたと記憶しているんですけど、このKindle電子書籍冊数が、この2017年3月に800冊を超えました。現在、Kindleには特に不満もないので、これからも電子書籍を書い続けるんだと思います。ライブラリもどんどん肥大していって、最終的にはちょっとした資産になると思うのですが、近所のドーナッツ屋でコーヒーを飲んでいるときに、ふと疑問が頭に浮かんだんです。

 

「もし自分が死んだら、このライブラリはどうなるのだろう? 誰かに相続されるのだろうか?」

 

セールや無料本なんかもよく使っているので、1冊400円くらいと適当に仮定しても、いまのライブラリには30万円を超えるお金を使っていることになります(月に1〜2万円書籍費に使う方に比べればまだまだ少ない)。物理的な本と違って電子書籍は経年劣化しませんから、僕が死ぬ数十年後の資産評価額=購入額になるはずです。誰かに相続されるのだとしたら、相続税も発生しそう。

 

しかし何より、もっと切実な問題があります。ライブラリを他人に見られるというのは、自分の頭の中身を丸裸にされるようで、気恥ずかしい。赤の他人は仕方ないにしても、身内には見られたくない。

 

  • 自分が死んだらKindleのライブラリはどうなるのか?
  • 本を残したい、伝えたい人は紙書籍を
  • 深掘り: 「電子書籍の所有」ではなく「使用権」にお金を支払っていること
  • まとめ

 

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(補足)「騎士団長殺し」の他の感想を眺めてみて

 

いろいろ「騎士団長殺し」の感想を眺めてみまして、感想のなかに「エロい」「ロリコン」という意見があり、そういう感想がでることは理解できなくもないのですが、村上主義者の僕としては、多少の補足意見というか、村上春樹さんへのささやかな擁護をしたくなって自分なりの意見を書いてみました。

 

※ 細かい内容でネタバレがあります。

 

 

ーーーーーー キ リ ト リ ーーーーーーーーーーーーーーー

 

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「騎士団長殺し」の他の感想を眺めてみて

 

騎士団長殺し」を読み終えて、いろいろと読書サイトを渉猟してみました。第3部がある派の方が他にいないか探してみたのですが、あんまりいらっしゃらないですね。マイノリティ。

 

でも数々の感想を眺めていて思ったのですが、皆さんばらばらの感想を書かれているんですよね。これが同じ本を読んだ結果か、と思うくらいにばらばら。

 

思うんですけれど、村上春樹さんという作家は、物語を計算し設計するタイプの小説家ではなく、小さな描写を組み上げて大きな物語を作るタイプなのですよね。たとえるなら、自然石を積み上げて高い石垣を作るように物語を作っているような感じがします。隙間なくぴたりとした石垣を作れるように、自然石を積んではおろし、別の石に積み替え、バランスを見てまた元に石に戻す、というような作業で小説を書いているみたいな。小さな描写は破綻なく意味が取れるのですが、その小さな描写同士の関連性というものは、読者の判断に委ねられます。近接する小さな描写の数が少なければ、多数の人が読んでも理解はぶれませんが、その小さな描写の数が多くなればどうでしょうか。さらには、村上春樹さんはメタファーの名手です。小さな描写に複数の意味を持たせながら物語を進行させます。そうすると、不思議なことに、描写たちを貫く物語のラインが、幾筋もできてしまうのです。普通の小説では物語のラインはひとつで、それ以上にラインがあると単にできの悪い小説だとか、成り立っていないという評価が与えられます。でも、村上春樹さんの小説はそれぞれの読み方のラインで読めてしまいます。ラインがいくつもあっても、物語が成立してしまうのです。通常の評価方法が通用しない、これが村上春樹さんが巨匠と呼ばれる所以でもあると思っています。

 

しかも小説ですから、理解に間違いはありません。どのような理解であれ、読者からそのように読めたのであれば、その物語は読者のその理解で正しいのです。原理的には。カウェアト・エンプトルです。

 

カウェアト・エンプトル。ラテン語で『買い手責任』のことですが、この文脈では『読者責任、ぐらいの意味ですね。騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編に出てきましたが、流行らない気がしますね。言いにくい。さすがに21世紀にラテン語は古くさい。まあわざわざ引用してきたのは僕なんですが。

 

 

ちなみに、エッセイ 職業としての小説家 (新潮文庫)村上春樹さんはこんなことを言っています。彼にとって小説とはこんなものだと。

 

小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。

 

そういう、回り道を好むような、スタイルというか、スタンスの作家さんです。なんというか、そういう泥くさい感じ、嫌いじゃないです。

 

 

 

ご参考。

 

taftaftaf.hatenablog.com

taftaftaf.hatenablog.com

taftaftaf.hatenablog.com
taftaftaf.hatenablog.com

 

 

elk.bookmeter.com

elk.bookmeter.com

 

 

終)騎士団長殺し (読書メモ&感想)

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 読み終えましたー。

 

これで終わり? でもまあまあ面白かった。物語的な設問が重なっていく第1部のほうがいわゆる読者をつかむ力というものは強いです。第2部は当然解決編のわけですけれど、引っ張ってこの解答か……という気持ちは否定できず。やっぱり村上春樹さんは中編ぐらいが良くまとまっていて好きなんですけどねー。

 

以下はネタバレの読書メモ。

 

ーーーーーー キ リ ト リ ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

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続)騎士団長殺し (読書途中での読書メモ)

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

第1部 読み終えました。物語的な設問というか、小さな謎が積み重なって続きが気になるので、続けて第2部に取り掛かりたいと思います。

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

村上春樹さん作品は比喩表現の連なりや重なりの読み解きが必要になりますが、これが結構骨が折れる。まあそれが「良さ」ではあるんですけどね……。でも今作では重要なメタファーは強調され繰り返し登場し、重要でないメタファーは軽く流されたり、あるいは主人公である「私」に否定(例:いや、たぶんそれは私のうがちすぎだろう)されたりしてあって、これまでの作品よりも読みやすい。メタファーに軽重メリハリがつけられたことで、作者にある程度ガイドされていると感じます。「ノルウェイの森」「ねじまき鳥」よりずっと読みやすく改善されているんじゃないかな。物語の読み方の自由度を減じたという言い方もできますが、でもこれは必要な処置だったと考えます。自転車に補助輪をつけるというよりは、真夜中の道に常夜灯を追加するような処置だと感じています。

 

今作「騎士団長殺し」では36歳で画家の「私」が主人公。プロローグからするに、「騎士団長殺し」のメインのストーリーライン(あるいはテーマ)は「主人公が自分が何であるかを知る」「妻を取り戻す」の2点のように思えます。けれど第1部の時点では、まだメインのラインにたどり着いていません。「騎士団長」がどうメインのストーリーラインに絡んで来るのかも、まだ見えていません(予想はできる)。読み続けます。

 

 

< 以下、第1部 読書メモ (個人用です:ネタバレあり注意)>

 

ーーーーーーーーーーーーー キ リ ト リ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

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