読み耽り書き散らすのが理想の生活

ネット的世界の端っこで考えたことを書き留めているだけのブログ。

自分が死んだらKindleのライブラリはどうなるのか?

僕はいわゆる電子書籍派でして。頻繁に電子書籍を購入してはアイフォンのKindleアプリで空き時間に読書を楽しんでます。たしか2013年夏からKindleを使い始めたと記憶しているんですけど、このKindle電子書籍冊数が、この2017年3月に800冊を超えました。現在、Kindleには特に不満もないので、これからも電子書籍を書い続けるんだと思います。ライブラリもどんどん肥大していって、最終的にはちょっとした資産になると思うのですが、近所のドーナッツ屋でコーヒーを飲んでいるときに、ふと疑問が頭に浮かんだんです。

 

「もし自分が死んだら、このライブラリはどうなるのだろう? 誰かに相続されるのだろうか?」

 

セールや無料本なんかもよく使っているので、1冊400円くらいと適当に仮定しても、いまのライブラリには30万円を超えるお金を使っていることになります(月に1〜2万円書籍費に使う方に比べればまだまだ少ない)。物理的な本と違って電子書籍は経年劣化しませんから、僕が死ぬ数十年後の資産評価額=購入額になるはずです。誰かに相続されるのだとしたら、相続税も発生しそう。

 

しかし何より、もっと切実な問題があります。ライブラリを他人に見られるというのは、自分の頭の中身を丸裸にされるようで、気恥ずかしい。赤の他人は仕方ないにしても、身内には見られたくない。

 

  • 自分が死んだらKindleのライブラリはどうなるのか?
  • 本を残したい、伝えたい人は紙書籍を
  • 深掘り: 「電子書籍の所有」ではなく「使用権」にお金を支払っていること
  • まとめ

 

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(補足)「騎士団長殺し」の他の感想を眺めてみて

 

いろいろ「騎士団長殺し」の感想を眺めてみまして、感想のなかに「エロい」「ロリコン」という意見があり、そういう感想がでることは理解できなくもないのですが、村上主義者の僕としては、多少の補足意見というか、村上春樹さんへのささやかな擁護をしたくなって自分なりの意見を書いてみました。

 

※ 細かい内容でネタバレがあります。

 

 

ーーーーーー キ リ ト リ ーーーーーーーーーーーーーーー

 

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「騎士団長殺し」の他の感想を眺めてみて

 

騎士団長殺し」を読み終えて、いろいろと読書サイトを渉猟してみました。第3部がある派の方が他にいないか探してみたのですが、あんまりいらっしゃらないですね。マイノリティ。

 

でも数々の感想を眺めていて思ったのですが、皆さんばらばらの感想を書かれているんですよね。これが同じ本を読んだ結果か、と思うくらいにばらばら。

 

思うんですけれど、村上春樹さんという作家は、物語を計算し設計するタイプの小説家ではなく、小さな描写を組み上げて大きな物語を作るタイプなのですよね。たとえるなら、自然石を積み上げて高い石垣を作るように物語を作っているような感じがします。隙間なくぴたりとした石垣を作れるように、自然石を積んではおろし、別の石に積み替え、バランスを見てまた元に石に戻す、というような作業で小説を書いているみたいな。小さな描写は破綻なく意味が取れるのですが、その小さな描写同士の関連性というものは、読者の判断に委ねられます。近接する小さな描写の数が少なければ、多数の人が読んでも理解はぶれませんが、その小さな描写の数が多くなればどうでしょうか。さらには、村上春樹さんはメタファーの名手です。小さな描写に複数の意味を持たせながら物語を進行させます。そうすると、不思議なことに、描写たちを貫く物語のラインが、幾筋もできてしまうのです。普通の小説では物語のラインはひとつで、それ以上にラインがあると単にできの悪い小説だとか、成り立っていないという評価が与えられます。でも、村上春樹さんの小説はそれぞれの読み方のラインで読めてしまいます。ラインがいくつもあっても、物語が成立してしまうのです。通常の評価方法が通用しない、これが村上春樹さんが巨匠と呼ばれる所以でもあると思っています。

 

しかも小説ですから、理解に間違いはありません。どのような理解であれ、読者からそのように読めたのであれば、その物語は読者のその理解で正しいのです。原理的には。カウェアト・エンプトルです。

 

カウェアト・エンプトル。ラテン語で『買い手責任』のことですが、この文脈では『読者責任、ぐらいの意味ですね。騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編に出てきましたが、流行らない気がしますね。言いにくい。さすがに21世紀にラテン語は古くさい。まあわざわざ引用してきたのは僕なんですが。

 

 

ちなみに、エッセイ 職業としての小説家 (新潮文庫)村上春樹さんはこんなことを言っています。彼にとって小説とはこんなものだと。

 

小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。

 

そういう、回り道を好むような、スタイルというか、スタンスの作家さんです。なんというか、そういう泥くさい感じ、嫌いじゃないです。

 

 

 

ご参考。

 

taftaftaf.hatenablog.com

taftaftaf.hatenablog.com

taftaftaf.hatenablog.com
taftaftaf.hatenablog.com

 

 

elk.bookmeter.com

elk.bookmeter.com

 

 

終)騎士団長殺し (読書メモ&感想)

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

 読み終えましたー。

 

これで終わり? でもまあまあ面白かった。物語的な設問が重なっていく第1部のほうがいわゆる読者をつかむ力というものは強いです。第2部は当然解決編のわけですけれど、引っ張ってこの解答か……という気持ちは否定できず。やっぱり村上春樹さんは中編ぐらいが良くまとまっていて好きなんですけどねー。

 

以下はネタバレの読書メモ。

 

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続)騎士団長殺し (読書途中での読書メモ)

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

 

第1部 読み終えました。物語的な設問というか、小さな謎が積み重なって続きが気になるので、続けて第2部に取り掛かりたいと思います。

 

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 

村上春樹さん作品は比喩表現の連なりや重なりの読み解きが必要になりますが、これが結構骨が折れる。まあそれが「良さ」ではあるんですけどね……。でも今作では重要なメタファーは強調され繰り返し登場し、重要でないメタファーは軽く流されたり、あるいは主人公である「私」に否定(例:いや、たぶんそれは私のうがちすぎだろう)されたりしてあって、これまでの作品よりも読みやすい。メタファーに軽重メリハリがつけられたことで、作者にある程度ガイドされていると感じます。「ノルウェイの森」「ねじまき鳥」よりずっと読みやすく改善されているんじゃないかな。物語の読み方の自由度を減じたという言い方もできますが、でもこれは必要な処置だったと考えます。自転車に補助輪をつけるというよりは、真夜中の道に常夜灯を追加するような処置だと感じています。

 

今作「騎士団長殺し」では36歳で画家の「私」が主人公。プロローグからするに、「騎士団長殺し」のメインのストーリーライン(あるいはテーマ)は「主人公が自分が何であるかを知る」「妻を取り戻す」の2点のように思えます。けれど第1部の時点では、まだメインのラインにたどり着いていません。「騎士団長」がどうメインのストーリーラインに絡んで来るのかも、まだ見えていません(予想はできる)。読み続けます。

 

 

< 以下、第1部 読書メモ (個人用です:ネタバレあり注意)>

 

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夢は見たりて? (銀河英雄伝説)

「夢は見たりて?

 子供には夢を見る

 時間がとても多く必要なの」

 

「全然足りないよ」

 

 

 

突然ですが、今日購入して読んだ銀河英雄伝説(原作:田中芳樹 漫画:藤崎竜)の1巻から抜粋。

 

零落貴族の美しい姉アンネローゼが、まだ幼い弟ラインハルトを起こすシーン。フジリューこと藤崎竜さんが描くお姉さんが本当にキレイ。藤崎さんはサイコプラスのころから好きな漫画家さんで思い入れもあるのですが今は割愛。

 

ちなみに、「夢は見たりて?」は堅い表現なので、文脈がないとわからないかも知れないので補足します。これは漢字化すると「夢は見足りて?」。つまり「(よく眠って)充分に夢を見ましたか?」ということですね。

 

話を戻すと、このあと美しい姉アンネローゼはすぐに皇帝より召されて、姉弟は離ればなれになります。弟ラインハルトは皇帝からの姉の奪還を誓いますが、力が足りないことをよく自覚しているため、まず貴族幼年学校に入学し、雌伏の時を過ごします。それは10歳の少年が大人になるための「夢」のような期間だったのかも知れません。「夢は見たりて? ーー全然足りないよ」というやり取りは、貴族幼年学校時代が訪れることのメタファー、隠喩なのかも知れません。 

 

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