夢は見たりて? (銀河英雄伝説)
「夢は見たりて?
子供には夢を見る
時間がとても多く必要なの」
「全然足りないよ」
突然ですが、今日購入して読んだ銀河英雄伝説(原作:田中芳樹 漫画:藤崎竜)の1巻から抜粋。
零落貴族の美しい姉アンネローゼが、まだ幼い弟ラインハルトを起こすシーン。フジリューこと藤崎竜さんが描くお姉さんが本当にキレイ。藤崎さんはサイコプラスのころから好きな漫画家さんで思い入れもあるのですが今は割愛。
ちなみに、「夢は見たりて?」は堅い表現なので、文脈がないとわからないかも知れないので補足します。これは漢字化すると「夢は見足りて?」。つまり「(よく眠って)充分に夢を見ましたか?」ということですね。
話を戻すと、このあと美しい姉アンネローゼはすぐに皇帝より召されて、姉弟は離ればなれになります。弟ラインハルトは皇帝からの姉の奪還を誓いますが、力が足りないことをよく自覚しているため、まず貴族幼年学校に入学し、雌伏の時を過ごします。それは10歳の少年が大人になるための「夢」のような期間だったのかも知れません。「夢は見たりて? ーー全然足りないよ」というやり取りは、貴族幼年学校時代が訪れることのメタファー、隠喩なのかも知れません。
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静岡県でげんこつハンバーグのさわやかに行って来ました
「やっぱり『さわやか』かなー」
「ああ、『さわやか』ありますよ、この辺」
静岡は浜松市に行ったときに、「このあたりに美味しいお店はありますか」と地元のひとに聞いたときの返答です。
それほど美味しいなら行ってみようかということで、『さわやか』行ってみました。静岡一円にある炭火焼き・牛肉100%のハンバーグのお店。後日「ケンミンSHOW」で静岡県民のソウルフードとして紹介されていました。
お店では名物のげんこつハンバーグを注文。しばし待つと、じゅうじゅうと油が飛ぶ熱っつい鉄板の上に乗ったハンバーグが運ばれてきました。”げんこつ”の名の通り、幅と大きさは普通のハンバーグみたいですけれども分厚い。重厚。背が高い。厚みがある。指三本くらいはある厚さです。全体としては、焼き網み目がついたごろりとした肉が、げんこつが、鉄板の上でじゅうじゅういっています。
焼き加減はレア。肉だねは超衛生的なセントラルキッチンで作っているので生で食しても問題ないみたいですが、気になるひとは、げんこつ肉を素早く切り分け、鉄板の上で押し付けて火を通していただきます。自分は元々ウェルダン派なのでべしべし鉄板でハンバーグの切り身に焼き色をつけます。
火の通りがちょうどいいところで、切り身をフォークに突き刺し、口へ運びます。もぎゅっという食感。圧倒的な肉感。「あー、肉食ってるなー!」
しっかりした赤身の歯ごたえと、弾力のある舌触り。噛むほどに出てくる旨味。肉、牛 肉、牛 にく、ぎゅう! 脳内が「にく」と「ぎゅう」で埋め尽くされます。
夢中でカトラリーを動かしているうちに、250グラムの牛肉は跡形もなく無くなっています。空になってしまった鉄皿はちょっと残念だけど、胃から満たされてくる満足感がジワジワきます。明日はちょっと頑張っちゃおうかなーなんて思わせてくれる食後感。納得。
旅行や出張 で静岡を訪れる機会があればチェーン店だと避けずにさわやかを訪れることをお勧めします。まる。
ミスドの担々麺はけっこうおいしい。
ミスドの担々麺ってけっこうおいしいんですねぇ。
ミスドっていうのはもちろんあのチェーン店のドーナッツ屋さんですけど、ドーナッツ以外に飲茶・点心系の食事と麺類も提供しているんですよ。
たふたふは甘いものも好きだし、楽天ポイントを消費しなきゃいけないしでミスドによく立ち寄ります。そこで目にするカラフルなおわんに入った麺類の広告に惹かれるわけです。「いつか食べてみたいなー」と思っていたことを実行してきました。それで選んだのが担々麺。甘いものも好きですけど、辛いものも好きなんですよ。
小さめのおわんに入った担々麺は、3分くらい? 準備に時間がかかるので、店員さんが席に持ってきてくれます。赤い汁に黄色っぽい麺、そして上にとんっ・・・と載せられたひき肉が美味しそうです。
よくかきまぜていただきます。スープを飲むと、おそらく花椒でしょうか、中華っぽい匂いがふわっと広がります。ごまの香りが立っていて、ドーナッツ屋さんのものとは思えません。ひき肉もそこそこの存在感。でも麺は湯切りが足りないのかもちゃっとした舌触りがありますけど、一生懸命に麺を撹拌します。ちょっとカロリーを消費できます。中細麺のちぢれ麺は、スープがよく絡む設計なのでしょうね。麺をすすります。すすります。スープのみます。花椒っぽい香り。完食。
さすがに専門店には及びませんが、しかしお値段(500円程度)から見ればよく頑張ってる! ミスドの担々麺をこれからも応援してきたいと思いました。まる。
暗い思考は、人格を暗くする訓練になってしまうということ
タイトルは、まえにギリシャ旅行をしたときの手記にぽろっと書いてあったこと。昔自分が書いたことながらほんとにそうだなぁと感心した。
暗いことを考えると、暗い思考の訓練になる
「思考は現実化する」なんて言われていますけど、結局のところ人間ってやつは自分の頭の中にあること以上のことはできないものです。
例えば鉄棒で大車輪を試してやろうとしたときに、イメージトレーニングで自分が成功するところを脳内に描けなければ、実際に成功することはないでしょう。
脳で考えることと、体で表現できることは、結構単純なパスでつながっているのだと思います。実感でわかります。
それで、脳というのは、同じことを思うたびに、脳内細胞をつなぐニューロンという触手みたいなものが強化される仕組みになっています。同じ仕事をやっていると効率があがったり、記憶が強化されるのはこの効果です。訓練や繰り返し学習をすることで、特定のニューロンが強化されて太くなっていくわけですね。
だから、暗い思考や後ろ向きな思考を繰り返していると、暗い思考のニューロンが強化されて、暗い思考アルゴリズムや記憶がぐんぐん強化されていくのです。自分を否定すればするほど、自分に自信が無くなっていくのと同じです。その負のフィードバックの結果を「人格」というトータルを示すパラメータに反映してみれば……どういう結果になるかは、わかりますよね? そう、「暗い思考の人間=暗いやつ」の出来上がりです。
また、世の中には「見取り稽古」というものがあって、例えば剣道の達人の動きを弟子がじっと見ている。達人が直接弟子を教えなくても、弟子が脳内で達人の動きをトレースすることを何年も続けることで、弟子は達人の動きに近づくことができます。他にも文章力をつけるための訓練として、新聞の文章をひたすら書き写すという訓練方法もあります。どちらも脳の働きに方向性を持たせるための訓練です。
だから、暗い思考を続けることは、「性格を暗くするための訓練」ということになります。ネガティブな思考を続けていると、だんだんネガティブな人格ができてくるんです。
「ここでこうなるから、だめだろう」と念入りにシミュレートして、実際にやってみて、「ほら、やっぱりそうだ……」とまた落ち込む。でも、当たり前ですね。自分で悪い結果を頭のなかで想定して繰り返して、それで実践に望むのですから。
これに気がついたときは衝撃でした。わたしの場合、まあ他の方の場合でも同じだと思うのですけれど、別に暗いことを考えたくて考えているんじゃなくて、どうにかして暗い思考から抜け出したくて、暗い案件を考えているだけですからね。それが効果を産まないどころか、逆効果になっていたわけですから。
じゃあ、どうしたらいい?
わたしの経験ですけれど、暗い思考をするときって、もう具体的な案件は終わってしまっていて、しかしそれでもぐるぐるぐるぐる鍋をかき回すように暗いことが頭を巡るんですよね。たとえば恋人と別れてしまったあと。いろいろ考えますよね。あのときもっときちんと話をしておけばよかった、このとき無理をしてでも会いにいけば良かった……。でも、「だからもし次があったらこうしよう」と、次回の対策を考えてしまえば、もうできることはないから思考終了なんですよね。でも過去のシーンがフラッシュバックして、同じことを繰り返し考えて、どんどん暗くなってしまう……。よくある悪循環です。
この悪循環を断ち切るには、どうしたら良いか?
対策は、3つに場合わけができます。対策3つすべてをやる必要はありません。対策3つのうちどれかが当たれば、悪循環は断ち切れます。(ちなみに、わたしは案件によって使い分けしてます。)
① 別のことで暗い思考を上書きする。
② 考えること自体を止める。
③ 悪い思い出にポジティブな評価を与えてマインドセットを変える。
対策の「①別のことで思考を上書きする」は対処療法です。暗い思考になりそうなとき、たとえば、別の楽しい思い出を思い出すとか、今日楽しみにしているテレビのことを考えるとか、やらなければいけないことを思い出すとか、そういうことでとにかく思考を上書きします。思い切って心のなかで素数を数えたりしても良いかも知れません。
「②考えることを止める」は①に似ています。暗い思考になりそうになったら、とにかく寝る、とか、仕事や遊びなど別のことに打ち込んでみる、などして、暗い思考が入り込む隙間を無くしてしまうという方法です。
対策①②は、プロスポーツ選手でも取り入れている方がいらっしゃるそうです。
そのプロのスポーツ選手は、自分でコントロールできる事柄とできない事柄を厳密に分け、コントロールできないことにはもう何もしない、考えないのだと言います。その代わり、自分でコントロールできることについては全力を傾ける。そしてベストコンディションで試合や大会に臨むのだとか。
人間、誰しもできることには限りがあります。プロスポーツの場合だと、練習をやってもやっても終わりが無い世界です。でもベストパフォーマンスを残すために、できることに集中するのだそうです。前出の失恋の例で行けば、今の失恋は完全に忘れ、新しい恋の獲得に全力を費やすということでしょうか。
そして「③悪い思い出にポジティブな評価を与えてマインドセットを変える」この対策は、体感的にですが、中長期的に効果があります。
たとえば、また失恋を例に取ると、失恋をつらい思い出と捉えるのではなくて、「失恋したから友達の想いがよくわかるようになった」とか、「この失恋を体験したからこそ心が強くなった」とか、「前に失恋したからこそ今の恋人に巡り会えた」とか、悪い思い出のあえて良い面を探し出してポジティブな評価を与え、悪い思い出を中和するやり方です。
物事には必ず良い面と悪い面がありますから、訓練して物事を常に多面的に捉えられるようになることで、人生全体の豊かさの底上げも期待できますね。
でもさ、別にいいんじゃない?
まとめ。
・暗いことを考え続けると、その思考回路は強化されてパラメータが闇属性になるよ
・別のことで思考を上書きしたり、ポジティブ変換すると良さそう。
・考えること自体を止めるってやりかたもあるよ!
でも。これでもうまくいかない場合もあるでしょう。そういう場合は、開き直ってしまいましょう。暗い自分を受け入れてやりましょう。ここまで読んでいただいてきて、身も蓋もないですが、地球上に60億人もいるんですから、暗い人格の人だって一定割合います。これは仕方がない。人類が発生したときから明るい人と暗い人がいたはずだし、暗い人のほうが知的で格好よかった時代だってあります。自分らしく生きていれば、それでいい。自分の一人や二人(自分は常に一人ですが)、暗いと言われていたって、地球も日本も関係なく回っていきますから。
要は、自分らしく気持ち良く生きることが一番大事です。その点を外さないようにしながら、ちょっとずつ改善ができればいいと思います。暗い映画が好きだって別にいいじゃないですか。
本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。
嫌なことはみんな忘れてしまう、おじいちゃんおばあちゃん最強。
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村上春樹への憧れとギリシャ紀行
京都生まれ。早稲田大学在学中の1974年から東京国分寺でジャズ喫茶を開店。夜間はジャズバーで開店資金は夫婦でアルバイトと借金をして貯めた500万円で、店を続けながら1975年に7年在学した早稲田大学文学部を卒業。1978年に神宮球場で天啓めいたものを受けて、ジャズ喫茶を経営しながらキッチンテーブルで小説を書いた。
1979年4月、文芸誌『群像』に応募した『風の歌を聴け』が群像新人文学賞を受賞。作家デビュー。1981年に専業作家となることを決意し、愛着のあった店を人に譲る。そして数作を経て、1986年10月にヨーロッパへ。3年ほど、ギリシャ、イタリアへ渡り、短期滞在を繰り返して過ごす。そんな期間に書いた「ノルウェイの森」が1987年、430万部のベストセラーになる……。
村上春樹さんは、たふたふの敬愛する作家のひとりです。
上述した村上春樹さんの作家としての前半生略歴の通り、1986年から3年間、ヨーロッパに行って、そこで観光を織り交ぜながら文章を書く仕事をされています。
「遠い太鼓 (講談社文庫)」という書籍を出していて、その書籍に各拠点でのステイの様子が書かれています。内容は現代で言うブログみたいな感じです。
やってることもノマドワーカー。20数年前は、ノマドワーカーなんていう言葉はなかったですけれど、現代を先取りしたワークスタイルですよね。カッコイイ!
村上春樹さん拠点をローマに置きながら、各地の家具付きのアパートメントを借りてショートステイをされてます。ギリシャにはよく行かれていて、ショートステイだけでなく観光も含め、スペッツェス島、ミコノス島、クレタそれとロードス島で過ごされています。もちろんアテネにも何度も行ってます。ギリシャの大きな空港やフェリーの港があるのはこの都市しかないですからね。
村上春樹さんに憧れる僕もギリシャに行ってきました
2010年に筆者がギリシャ旅行をしたときは、さすがにエーゲ海の島々に滞在、とはいかなかったのですが、アテネを訪れたとき、エーゲ海の手近な島(エギナ島、Aegina)に行きました。これはこの島に行きたかったというよりは、行き先はどこでもいいから、船でエーゲ海を渡ってみたかったんですよね。船好きなので。
でも、筆者が旅行した当時、ギリシャも経済的にかなり良くない時期で、街もなんとなく寂しい感じでした。でもそのおかげで、前出の「遠い太鼓」観光国ギリシャという国のオフシーズンの物悲しさというか閑散とした雰囲気はなんとなくわかりました。
しかも、廃墟遺跡が多くて、旅行を通してギリシャは寂しい国だなあという印象でした。一人旅ということもあって贅沢旅行ではない旅行でしたが、ギリシャ本土ではなく、もっと観光地の島を回ってツーリスティックな旅行をしないと、観光国ギリシャの本当の姿は見えて来ないのかも知れませんね。サントリーニ島とか。
旅の教訓としては、「どうせギリシャに行くなら、エーゲ海クルーズ!」 …ですね。
ギリシャには、ギリシャ神話関連の遺物なんてまともに残っていなかったのも印象的です。それはキリスト教がギリシャに入ってきたとき、前時代の神々は異教の悪魔として祓われた(Exocised)のです。ギリシャ人自らが前時代の神狩りを主導し、自分のご先祖様たちが作った石像を破壊して回りました。女神の顔面を削り取り、☓印を付けて、さらにExocisedと刻み込む念の入れようは、普遍的な人間の愚かさを感じて寂しくなりました。
写真晒しタイム
アテネからピレウス、そしてフェリーでエーゲ海を渡り、エギア島へ行ったときの写真です。
アテネ(アティーネと発音していた記憶)には列車で入りました。
で、フェリー。
でかいフェリー。カーフェリーで車ごと乗れます。
高速船もあります。しゅばーって進みます。
外海に出ると青が深くなるエーゲ海。(高速船の窓越しの写真)
あっという間のエギア島。天気が悪い。
季節は春。
(2015年に村上さんギリシャを再訪して思い出の場所めぐりをしています)
長寿社会の問題点 <定命のもの(2)>
命には限りがあります。それが生命の定義のひとつであり、一方で悩みのタネであるのですが、しかし、現代において、現実として、我々の寿命はどんどん伸びています。
ご存知のように生活環境や栄養状態の向上、また医療技術の進歩により寿命はさらに伸びています。特に医療技術進展の寄与は大きく、平均寿命は100歳を超えるという説を唱える人もいます。我々人類は、インモータル(不死)に近づいているという話です。
で、実際のところはどうなのか、さっと調べてみると、2015年度の日本人の平均寿命調査で、男性が80.79歳、女性が87.05歳ということ。
日本人の平均寿命はどれくらい?|公益財団法人 生命保険文化センター
過去からの推移はこんな感じ。
寿命は時代を経るごとに順調に伸びています。もちろん寿命が伸びることは喜ばしく歓迎すべきことなのですが、問題も出てきますね。悪い面も軽く考えてみましょう。
悪い面としてよく言われるのが、人生をつつがなく終えるためのお金の不足。死ぬまで裕福に暮らすには定年までに1億円貯めなければいけないなどと生命保険会社が言っています。本当にこれだけ必要かはわかりませんが、年金の制度が破綻したらいくらお金を持っていても足りないでしょうね。
そういう心理が働くのか、日本では高齢者が財産を溜め込み、一方で若者が貯蓄できていないという問題もあります。世代間で財産が還流していないという問題ですね。統計上、日本の貯蓄率は高いと言われながらも不均衡があるという例です。寿命が伸びれば、世代間の財産的不均衡は拡大すると考えられます。不謹慎かも知れませんが、世代間の財産の不均衡は相続という制度を通って一般的には解消されるからです。
それから、長寿社会は高齢社会でもあります。つまり、平均寿命が伸びることの悪い面は、高齢社会の悪いところがそのまま適用できます。医療費の増大、痴呆、介護の諸問題、働き手と養われる者の不均衡、消費の減少、活力の低下とかそういうところです。
最近だと高齢者による交通事故もそのひとつでしょうか。年を取ると、目や耳の感覚やとっさの判断力が衰えます。動物であればこれは避けがたいことです。早く自動運転が広まらないかな、そうすれば高齢者が危険な運転などしなくてもいいのになーなどと考えています。
本当はこれらの諸問題に、自分なりの回答でもつけられればよかったのですが、残念ながら良い考えが浮かびませんでした。気の利いた答えも思いつかず。
でもいろいろと考えたおかげで、死ぬことのない「インモータル」たちの心情に少しでも寄り添うことができたかも。お気楽そうな神々も、実は結構、彼らなりの悩みを抱えているのかも知れません。
本日も当ブログにお越しいただきありがとうございました。
命に期限があるから輝ける <定命のもの(1)>
そういえば、インモータルズという映画がありました。
ギリシャ神話の神々が出てきて敵と戦う映画でした。まあ壮大そうな割には日本の予算の少ない特撮物を連想させる出来でしたが……さて。
インモータル(英語)は、イン・モータルと切ります。インは否定の接頭辞ですね。インモー・タルときってはいけません。色々な意味でですね。ちょっとおシモっぽくなります。とにかく、イン・モータル。モータル(mortal)とは、「死すべき運命の、定命の」という意味なので、それを否定するインモータルとは、「不死のもの」。つまり、神様の代名詞です。じゃあ死すべき運命のモータルは、といえば、人間のことを指すんですね。
人間ははかない定命の存在。誰も彼も皆いつか死ぬのに、そのことを忘れているのかあえて見ないのか、とにかく意識の外に置いて生活しています。暖衣飽食、それだけでなく娯楽が尽きぬ現世にあって、わざわざ死を意識することは逆に難しいのかも知れません。そういう中でも死を、つまりは生が有限であることを嗅ぎ取って、人生を積極的に選び取っていく人たちも少数ながらいます。
不思議なものです。絶対に避けられないものだし、そう遠いものでもないというのに、「自分の死」だけは遠く意識から追いやっている。でも、終わりがあるから「今」を大切にしようと思うものです。限りがあるから、人生を輝かせたいという発想が出てくるし、実際に人生を輝かせるために厳しい努力を積み、自分の能力を開発し困難に打ち勝ち、華々しく生きる人もいます。終わりがないと思えば、いつまでもダラダラするのが人間というものです。自分がはかない定命のものだということに、逆に感謝をして生きるべきなのでしょうね。人間が神々よりも優れている点は、期限が定まった命を持っていることにあるのです。(続く)